「実践酪農学」の記録


「実践酪農学」の記録

【1】放牧酪農について  佐藤智好氏(足寄町酪農家)

【2】教育ファームについて  広瀬文彦氏(帯広市酪農家)

【3】専門農協の取組  野名辰二氏(サツラク部長)

【4】都市近郊酪農の実践  百瀬誠記氏(江別市酪農家)

【5】酪農における男と女の役割  石橋榮紀氏(浜中町農協代表理事組合長)

【6】無畜舎酪農と季節繁殖  出田基子氏(清水町酪農家)

【7】酪農地帯における畜産加工  岡田ミナ子氏(白滝町酪農家)

【8】酪農支援の取り組み  中野松雄氏(鹿追町農協常務理事)

【9】酪農生産法人の歴史  白石康仁氏(卯原内酪農生産組合部長)

【10】農業後継者支援策  山下光治氏(北海道担い手センター)

【11】農場の設計手順  船本末雄氏(北海道農業協同組合中央会)

 
放牧酪農について
 
酪農家の本当の成功ってお金儲かった、ただそれで良かったっていう風にはならないんですよね。やっぱり環境にもやさしくなんなきゃならないし、後継者も、あーこれだったらおやじの後ついでやるよ。あるいは、みなさんのように若い人達が、放牧酪農だったらやってみたいなーっていう風なものをやっぱり自分達、先輩としてやっぱりやっていかなきゃならない。その中で、自分達も、40代半ばでもって放牧酪農っていう形へ変更したんですけど、それはやっぱり今まで儲けよう儲けようってあまりにも強く思いすぎた。そうじゃなくて、自分達の時に儲けるためには何をしたらいいんだっていう風に思ったのが始まりです。まぁー牛は牛らしく、人は人らしく、そういう風に原点に戻ってそして、放牧酪農をやってみようって考えました。

<経営概況>
経営概況なり牧場の概況なんですけども、母親が死にましたが父と母が昭和21年に、入植して、原生林を畑に耕して、そしてまぁー25年そこでやってきたわけです。それから牧場に昭和50年に移転してきました。今の家の構成っていうのはこうなっています。土地は全部で109ha、採草地50ha、放牧地29haということで結構面積的には恵まれてるんです。放牧酪農をするのに最低条件っていうのは、やっぱり牛舎近辺になるべく広い土地を持つってのが一つの条件ですよね。それから、放牧酪農を目指したいということであれば、やっぱり足寄町みたく他の町々回ってね、素敵な土地を見つけて、安い土地を見つけて、いい仲間を見つけて、そしてやれれば、あのー成功への道のりはちょっと短くてすむのかなっていう風に思います。
年間の牛群成績ですけども、乳量はこういう風になっております。脂肪とか無脂固形とかね平均産次とか、分娩間隔ありますけれども、放牧をする前はですね、この平均産次ってのが僕の場合1.7産だったんですね。でー、確実にやっぱりあの平均産次も伸びたし、まぁー乳量も放牧を始めた時には下がったんですけども、やっぱりそれも徐々に回復して、やっぱり牛が本当に草地に行って草を食べることによって、効率良く牛乳になっているのかなっていう風に感じております。これ牛の歩く通路なんですよね。でー、牛舎がここですよね。こっからこう行きます。こっちにも行きますし、こっちからこうも行きますよね。こう行ってこうも行きます。ここにはちょっとちいさい川があるんですけれども、ここも渡ってこう行きます。平成8年にニュージーランド行って、あーなるほどこういうやり方もあるんだなと思ったんですね。みなさんこれから勉強すると思うんですけれども、牧区がNo.1−No.20ぐらいまでありますけれども、一日ねここにねこう牛を放牧する。これですね、No.1ね、そしてNo.2、No.3、No.4って風に放牧するんですけども、一日目、二日目、三日目、そしてぐるーっと回って、ここにくる頃にはまぁー普通の適期の状態では、ちょうど草丈が15cm とか20cm に伸びている訳です。本当に牛が食べ頃の草にまたなってるわけですよね、で、天気の良い日にはまぁー昨年みたいに暑い日にはそれが伸びすぎたって言ってますよね。で、そん時にはこの牧区とこの牧区とこの2牧区以外は閉鎖してこれは乾草にまわそうと、そして、あとの16牧区ぐらいでもってまわそうっていうそういうこともできるんですよね。ですから、酪農に限らず農業ってのは常にその気象条件に左右されるってことなんですね。
だから、そこがやっぱり難しい所以なんですけども、それをやっぱり事前に察する。特に、今年みたいに気温が低い時にはやっぱり全部の牧区を使って、途中で気温が高くなった時点でどっかの牧区
を閉鎖しながら、また少ない牧区でまわせれば効率よく、放牧できます。こうすることで牛が本当に栄養のある、草を食べれるのかなっていう風に思うんですね。


やっぱり放牧の大前提っていうのは、放牧からいかに栄養を取るかなんですよね。放牧からいかに、たくさんの栄養を取ることによって、穀物給与を減らせれるからコストダウンにつながるってことなんですね。それと同時に、従来であればこの全部を大型機械でもって刈り取って、そしてサイレージなり、乾草にしなきゃいけないものを、牛が自分で来て自分で歩いて自分で収穫するんですよね。ですから、牛は、自走式のハーベスターであるし自走式のマニュアスプレッダーです。ようするに、ここに全部糞尿をばら撒きますよね。以前はそうじゃなくて全部機械でもってやっていたんですけど、あれを近代酪農って言う風に言ってるんですけども、オラに言わせれば、随分不合理なんですよね。燃料は、アラビアから持ってくる。穀物は、アメリカから持ってくるでしょ。そして、高い労働力を使って、ああいう形でもってやっているんです。確かに、先程言いましたように、穀物のような物も、安くて労働力も安くて、そして、オイルが安いうちはそれでも成り立つよね。そうじゃなくて、こういう方法がある
んだよってことをね、皆さんに知って欲しいなと思うんですよね。で、もう一つね、先程、ちょっと言い忘れたけども、これを、もし、あの牛が、自分で牧草を食べることによって、あの労働力が軽減されることになれば、コントラなり、自分で収穫しなくてもいいし、その、期間には牛舎なり、あの給餌施設で餌を人間があげなくても済むんだよね。
それが非常に我々酪農家にとっては、楽だというか、まぁー朗報っていうかね、我々が目指した酪農はこれだな、これなんだなって言う風に、今、自分達、感じております。先程言いましたように、今ね、平均200頭、300頭飼ってる農家の平均産次はこれが随分低いんだよね。2.1産とか、あるいは2.2産とかね、そして、こうなっちゃうと結局牛の寿命が短いってことだから、200頭、300頭飼ってもね、所得率が下がっちゃうんだよね。だから、若いうちに淘汰しなきゃいけないって事になってるから、その分50万、55万の若牛を補充しなきゃなんないんです。その牧場の牛乳生産ってのは、大きくすれば乳代っていう風な形での総収入は上がるけれども、他方、牛の淘汰が早まる。あるいは、機械化を多量に使わんきゃいけない、油も使わんきゃいけない。そして、人も雇わなきゃいけないって事で所得も減るし、所得率も減るから、結局は所得も意外と伸びないっていう、人も結構いる。まぁー全部じゃないですけどね。だから、我々これ放牧を始める時に、皆、周りの人に言われたんだけど、「今更なぜ放牧なんだ」と、「昔に戻るんじゃないの」っていう風に言われたんだけど、昔に戻ったって、お金になればいいし、労働力が軽減されれば良いわけであって、問題は、大規模で牛を沢山飼うことが自分達の目標じゃないんだよね。自分達の目標っていうのは、あくまでも、その家族が幸せに過ごせれば良いだろうし、そしてまた、時間的な余裕も欲しいだろうしね。で、やっぱりたまには、海外旅行なり、まぁー国内旅行もしたい。そなると、ただただ、忙しい。でも、お金はある。そういう生活だけで、果たして良いのかって事なんだよね。我々はそうじゃなくて、やっぱり、酪農家として良かったなって、男性だけ、父さんだけじゃなくて、お母さんもそうだし、子供たちも、あー酪農家で良かったよなーっていう風に思えるような、酪農家になりたいということで、こういうスタイルにしたんですよね。これが、平成8年に放牧を始めたんですねー、で、今こういう風になってます。で、そんなに乳量変わりません。でも、一番下の乳飼比なんですけれども、これがあの平成6年、7年は35%くらいいったんですね。で、これが10%と違うとね、もう300万違う。300万〜350万違ってくるんだよね。一年間にね、これ、350万プラスになるか、350万マイナスになるか、もうほとんど餌で決まっちゃうってのが、今の酪農の実能なのかなって思ってるよね。ですから、やっぱり、なるべく、牧草から栄養を取るっていうことで、これがこういう風にずっと下げれる。で、自分達の仲間では、まだまだ、乳飼比下げてる人もいるんだけども、ただ、下げりゃ良いってもんでないんだよね。穀物の値段が今安いですから、ある程度食べさせて、そして、また青草もある程度、放牧もある程度しながら、程よい形でもって、一頭あたりの所得を増やす、そういう形が、一番望ましいですよね。これが平成8年と平成15年を比較した図なんですけども、まぁー総収益でこれだけ違いがあります。
自分達が一番目指すのはこれ当期純利益なんですよね。これが自分達が使えるお金、生活費プラス車買ったりあるいは機械を購入したりってするお金なんですけども、これをいかに増やすってことです。フリーストールといいますか大規模化にするのか、あるいは我々のような放牧にするのか、あるいは従来の舎飼いっていいますそういうスタイルでもって、経営を継続するのかという風なことを日々、酪農家は選択してます。そういう選択を誤っちゃうと、2億、3億の負債を抱えながらもう辞めるに辞められない、そういう農家もいるんですよね。で、片方では1億、2億の貯金もある。だからその上下の差がねすごいのもまた酪農の世界なのかなっていう風に感じております。で、やっぱり、酪農をするにおいては少しねお金を借りなきゃいけない。それもまた、ある意味事業だからね、やっぱり事業資金は無けりゃー借りなきゃいけないし、その代わり確実に返さなきゃいけないってことですよね。で、その返し方が先程言いましたように、たくさん数を飼ってたくさん牛乳を搾って返すのか、あるいはそんなに飼わなくても、合理的な方法だけもって所得上げて返すのかっていうのが、それぞれの経営者の力量だと思う。


<情報の活用>
牧草の条件でもって変わるんだろうけれども、ただ様々のね、雑誌なり先生方の言うことを含めて活字に書いてあること、そして、先生方の言うことが全て間違ってない。あってる。それが順当だっていう風に考えてもらったら困るんだよね。で、やっぱりこれからは、皆さん疑ってかかることも必要だし、ある部分信じることも必要なんだけども、やっぱり情報ってのは、あくまでも裏と表がある。正しい情報もあるし、正しくない情報もある。その人にとっては正しいんだけども、他の人にとっては正しくない情報もあるっていう風にとらえていかないとやっぱり情報に左右されちゃうってこと。これは他の産業だけじゃなくて、我々酪農家の人にも言えるんだよね。ですから、よく言われるんですけども、一頭当たりの乳量を増やせばいいのかってことで、バンバンバンバン餌食わしちゃうと、結局は餌代だけでもって経費が増えちゃって結局は所得にならないってことですよね。所得率23%でしょこれね。で、こちらはこういう風になってる。って事になると、餌食わした割には所得にならないとしたら餌食わさんで所得になる方を考える。だから、たくさん食べて搾るのか、あんまり食べさせないで搾るのかって
いうそこら辺のちょっと難しい所なんだけど、やっぱりこれはどうしてそういう技術を習得するかってなったら自分一人では困難なんだね。なかなか。専門家の人に聞いても教科書通りっていうか、我々に言わせればアメリカの様々の情報が意外とそういう風な方向にいってるのかなっていう風に感じます。で、我々は仲間7人、そして今新規就農した3人っていうか3軒ですね。我々は夫婦でもって同伴でこういう技術討論会とか、色々な取り組みをやってるんですね。で、その中で、やっぱり、総収入を増やすことに苦心してると労働力は本当に足りなくなっちゃうし、何のために酪農やってるんだと。自分達が最初目指した所得も上がるし、そして時間も作れるっていうような目標がずれ、いつの間にかずれちゃうってことが多々あるしそういう現実を見てます。先程、話題に出たけどやっぱり辞めるに辞められない。辞められない止まらないっていうたぶん何かそんな風なふざけたことを言う人もいま
すけども、もうかっぱえびせんの世界ですよね。辞められない、辞めたいんだけど辞められない、辞めさせてくれないっていうのかな。だから、あこがれじゃなくてやっぱり農業社会も、酪農社会も厳しいよ。でもやり方によっては、可能性もあるよってのが他の産業と全くまぁー共通していることだと思います。これが今までの自分達の経過なんです。


<経営の経過>
昭和21年にね、親父夫婦が入植しました。で、そこは面積が少なくて、これからの経営展開にはちょっとまずいなっていう風に感じましたんで、僕が25歳の時ですね、ちょうど昭和50年に今の所に移転しております。で、そん時に色々な施設、牛舎、尿だめ、堆肥盤、そんなもの、あるいは土地習得含めて5,000万の負債をしました。こういう風な借金っていうか投資をしますと、借金ってはあまり聞こえ良くないから、投資ってことだったらね何か儲けそうな感じするけどもやっぱりこれからはみんな借金っていう風に捉えるより投資って捉えた方が良いかもしれないね。でも借金ってのはダメだ、ちょっとみじめったらしいよね。人から借りたんだよねーうん。でも、順調に返せればこれは投資になるんだよね。で、借金したんだから投資したんだからたくさん搾れよって言う指導があったりして、濃厚飼料多給型っていう風に実践するんですけども、先程言ったようにまぁー事故が多くてね。先程2.7産と言いましたけど、平均産次が2.7産ですね。
で、まぁーこれがずいぶん続きましたよね。十数年続きましたよね。あの、苦悩時代がね。で、あの91年ですけれども、中標津行って三友さんってひとがおります。この人は、牛を減らす、そして牛の能力を落として所得を上げる方法があるんだよっていう風に我々に教えてくれた人なんですね。例えばグラフ書きますと、収入がこんなにあるんですけれども、ね、経費がこれだけかかっちゃえばこのぐらいしか所得無いですよね。でも、この収入がこれしかなくても、これしか経費がかかってなければね、所得がある。だから、たくさん搾ればいいんじゃなくて、たくさん牛を飼えばいいんじゃなくて、やっぱり先程から何回も言うんだけど、やっぱりその牛に合理的に働いてもらうためには、損益分岐点っていうかな、程よいその数字ってのがあるんだよね。そのためには、大前提でそれを一生懸命に働いてもらわなきゃなんない時もある。でも、そういうことをただその一人で黙々と頑張ってもなかなか成果が上がらない。そして浜頓別の池田さんに会った。そして放牧した方がいいよっていうようなアドバイスを得る。そして96年にニュージーランドに行きました。穀物をたくさん食べさせてそして、たくさん搾って所得を得るっていうような流れに急速にこの時点はもう行ってるんですよね。で、ニュージーランドはほとんど一年中放牧できるっていうような土地柄ですから、そして穀物が高くてとても買えないと。だから、牛乳を生産するんだっていうことで20円とか22〜3円でもって生産者は牛乳を売ってるわけですね。でも、我々は72〜3円あるいは75円の乳価でもって、北海道で牛乳生産をしている。日本の場合は乳価は高いんですね。でも乳価に比較して購入飼料が安いからどうしても購入飼料をたくさん食べさせて、たくさん搾るっていう風になっちゃう。でもニュージーランドは、穀物が乳価と比較して高いからなるべく放牧してそして、所得を得るっていう風に全くやり方が違うんですね。ニュージーランドの乳価が安い所の放牧っていう方法を乳価の高い日本で実践したらどうなるかってことになったら、やっぱりこれはもう儲かるのは当たり前なんだよね。ある程度面積持っていればね。だから、
そういう酪農にも色々なからくりっていうのかな、よくよくその見極めればわかるんでけども、そういう道理っていうものが意外と酪農の指導者っていうのはわかってないっていう部分があるよね。で、我々が放牧を目指すって言った時に本当に農協とか普及所からは何考えてんだっていうようなそういう風な罵声をね随分言われたんですよね。


<放牧研究グループ>
だから、我々7人そして向こうが農協、あるいは役場、普及所含めて何百人っていう数字ですよね。本当に多勢に無勢なんだよね。で、挑むにはどうしたらいいかってなれば我々がやっぱり数なんだよね。だから、あのーグループでもってここにありますけども研究会を設立したっていうのが経過なんですよね。ニュージーランドに一緒に行った人が北海道農政部の部長っていう人で、やっぱり今まだなかなか日本でもって放牧酪農をやるってことに対して、農協組織とか普及所は応援してくれないだろうと、でそれに立ち向かうにはやっぱり君達、グループを作ってそれでもって、短期のうちに成果を上げなきゃ潰されるぞみたいな話でね。我々はやっぱりグループを作りそして色々な放牧の本や本当に詳しい人を講師に呼んでそして勉強、徹底的に勉強しました3年程ね。そして我々男性陣は放
牧に対してはある程度知識はあるし、認識もある、でもー奥さん方は知らない。それで勉強しに行ってもらいました。で、そん時ちょうど農林省の方でも放牧酪農に対してどういう風な放牧酪農、本当に将来性あるのかどうなのかわかんないっていうことで、実践するグループにはお金を貸しますよと、補助金を出しますよという制度がありましてですね、7軒で5,000万程の助成金を得ました。ここにもありますように電気牧柵、牧道、水槽、そういうようなものを整備しまして、放牧に踏み切ったわけです。


<放牧酪農に変わって>
放牧をしてから変わった事って言うことは、こういうことですよね。介護酪農からの脱却。これは、ちょっとみなさんピンとこないかもしれないですけども、牛を牛舎に置いておきますと、糞もしますし腹も減ります。当たり前ですよね。ですから、それは人間が、バンクリーナーっていう機械を使うんですけれども、やはり、除糞をして、餌は牛の口元まで持っていくって言うようなことを、本当に365日繰り返すわけです。けれども、それは、非常に過酷な仕事なんですよね。ですから、今は、なるべくそういう物を避ける為に、大規模化の人はフリーストールや様々な機械を駆使して経営をやっております。
それが、結局は経営の足を引っ張る。過剰投資に?がるんですけれども、そういうことを無くする為に、我々の様な放牧もあるんですよね。介護酪農では我々は健康な牛に対して随分、一生懸命、労力を費やしてね、やらなくても良いようなことをやったわけですよね。除糞とか、あるいは、餌やりですよね。で、牛が放牧地に行って食べれば、糞の量は、本当に10分の1くらいで済みます。餌も放牧地で食べてくるんですから、そういう作業も減るって事ですね。そして牛も人も健康になったってことです。
牛も本当は青草食いたいんですよね。自分で行ってね。放牧地行って、牛が青草を食べれるっていうのは、牛は自分の食べたい餌を食えるわけね。で、そうじゃなくて、施設酪農の牛ってのは、食べたくない餌も、食わなきゃいけないんだよね。だから放牧地全般を食べるような草地にしなきゃいけないってのが、放牧酪農家の一番の見せ所であり、難しい部分だよね。その為には、土壌を良い牧草が育つような形でもって、管理をしなきゃいけない。そんなことを徹底して勉強しなきゃいけないっていうのが、放牧酪農の一つの難しさなのかなという風に考えております。こういう形で飼うとビタミンも補強されるし、運動もするし、そしてきれいな空気も吸えるし、雨にあったらシャワーでもって、牛体もね、自分の埃も落とせるし、あるいは、土に頭を擦ったり、体を擦ったりしながら痒い所にも、快適に対処できる。そんなことも含めて、健康になるのかなと思います。で、人も健康になったって言うのは、先程言ってますように、重労働から開放されるって事ですよね。ただ、冬の場合は、そうはいきません。冬はやっぱり、人間がある程度やらなきゃいけないです。だから、そこでもって、我々これから考えるのがやっぱりなるべく、放牧に合わして牛を分娩させる。そういうことを、これから重点的に考えれば、冬の間はなるべく牛乳を搾らないで休み、人間の方も休む、そういう風な方法をね、ニュージーランドでやってます。ニュージーランドから帰って新規就農してる人はそういう事を実践してやってるんですよね。ですから、そういう工夫で随分、変わるっていうのがまた、酪農の面白さなんだなって言う風に実感しております。餌給与ですけども、僕たちは初めは4回やったんですね。これは、穀物ですけども、で、それが放し始めてから2回に減った。そして、労働時間も減少した。これは、餌給与、あるいは、餌を生産する為にトラクターに乗る時間も減ったし、そういう調整時間も随分減ったって言うことですよね。ですから自由時間も確保できたっていうことですね。日中は牛を放牧に行っちゃうと、夜の5時位までは牧草収穫以外の時期は自由時間を作れる。そんなのもまた放牧酪農の一つの長所だなーって言う風に感じております。牛が搾乳時間しか牛舎におりませんから後の20時間っていうのは草地にいます。昼夜放牧ですからね。昼も夜も牛は草地におります。ですから、24分の4しか牛舎にいないんですから、糞尿の溜まる量も少ないって言うことで、すごく効率的なのかなっていう風に思っております。


<放牧酪農の課題>
問題もあるんですよね。やっぱり、第一に牛舎のそばにある程度の土地が必要だ。一頭当たり、最低やはり30aあるいは50aの土地が必要なんですね。第二に餌計算ができない。勘は大切って事あります。飼い主が餌やらないので自分で本当に食べたい餌を、食べたいだけ食べてくる、ですから、もし、草地が良くなければ、あんまり食べてこないって事も想定できるんですよね。そして、天候に左右される、先程、申しましたように、やっぱり今年みたいに、天気が良くない年には、牧草の生産も落ちるから、その分をどうするんだっていうような課題も残るんですね。


<季節繁殖>
秋からね、5月の間、この時期に、分娩させれれば、ちょうど、牧草時期に牛は草地でもって充分な餌を食べて、本当に低コストの牛乳を生産できる。そして、所得率が上がる。そういう風な形になっております。で、牛が出来ることは、牛に任せる。これ、非常に大事なことなんですね。先程言ったように自分達、今まで何十年も、牛が出来ることを人がやってきた。そして、腰が痛いとかね、腕が痛いとかね。で、農業はつまらんそして、後継者にやらせれない。それが今までの我々の先輩のやってきた農業なのかなという風に思います。で、牛の力を信じる。これね、牛はただ牛乳を生産するだけの牛じゃないんですよね。やっぱり、あの本当の栄養あるおいしい牧草を見分ける力もあるし、4km も5km も遠い畑でも自分で行ってちゃんと牧草食べてー牛舎に戻ってきて牛乳を生産してくれる。本当にそのすばらしい能力を持ってるんですね。でも、今の大規模農家は、ここら辺がね、ただただ牛乳を生産するだけになってるのかな。ちょっとそんな感じしますよね。


<土づくり>
土ってのは本当にどうなってんだってのは我々の目には見えないんですよね。窒素がなんぼだ、リンがなんぼだ、マグネシウムがなんぼだ、ケイ素がなんぼだ、これはやはり分析に出さなきゃいけない。でも一番手っ取り早いのは、牛を草地に出せばいい土地なのか、いい草地なのかどうかってのはわかるんですよね。やっぱり、まんべんなく牛が食べてくれるってのは、あーいいぞと。そしてミミズとかね、クモとかね色々な虫がいるとやっぱりね、そういう草地の草をよく食べれるんですよね。
だから、やっぱり微生物とか、あるいはそういう昆虫とかがねいるってのは一見気持ち悪いように風に思うんですけども、やっぱりそういうその生態系っていうのかな、そういう様々なクモとかねミミズとかそういうもんでもって土のバランスってのはとれてるのかなっていう風に実感するんだね。ですから、別に我々の仕事ってのは常に放牧地を歩いて、土を見て、そして糞をひっくり返して色んな虫がいるなー、そしてたまには、あっミミズもいるぞとそんな事を確認しながら牛がどういう形でもってどういう風に草を食べてるのかなっていう風に見ながらやるのが放牧酪農家の仕事なのかなっていう風に感じます。


<放牧風景と食料>
牛がこうやってこう寝てるとね、まぁー牛が寝てるってのは我々すごく癒されるんだよね。
北海道のチーズとかバターのパッケージってのはこれですよね。でも本当9割の酪農家はこういうスタイルじゃないよね。でも、消費者はこういう方に望んでる。だから消費者が望んでるスタイルと生産効率、生産を上げろと、コストを下げてたくさん搾れっていう部分とのギャップがBSEであり、口蹄疫でありね。過剰に生産っていうのはたくさん搾らなきゃならないってことでそして、なるべく安い餌を食わせなきゃならないってことでそんな風に牛を飼った結果がBSEって形で出たってことですよね。ですから、それは何を意味するかってことは、生産効率を追求したあまりにね、最終的には人間まで死んじゃうぞと、自分の命まで縮めちゃうぞっていう結果なんですよね。ですから農業者はやっぱり餌を作ってるんじゃないんだよね。人間の食料を作ってる。人間の食料作ってるってことは、やっぱりこれから君たちが結婚して、子供生まれて、そしてその子供達の命まで責任持たんきゃいけないわけだ
よね、そこが非常に重要なわけで、ただただ生産する、そしてコストを下げてたくさん搾ればいいし、自分達は幸せになれば子孫はかまわんよっていうことじゃなくて、自分達の子供、孫が本当に幸せな人生を送れるかってのは、本当にやっぱりいいものを食べて、元気の源のね、そういうものが得れることによっていい仕事にもつけるだろうし、いい発想も浮かぶだろうし、いいまた伴侶にめぐり合えるだろうし、そういう風な形が我々望んでいることであるんだ。それが一旦食糧でもって躓いちゃうと、車であればねパーツを取り替えて、それでもってすむよ。すいませんでしたでもって、新聞の片隅にリコール対象車はこれですよっていう風に済むんですけども、一旦、食糧ってことになりますと肝臓やられました。あるいはBSEは脳ですよね。脳までやられましたってことになると、脳を換えることはできないですよね。そして心臓も肝臓を換えることはできないですよね。今は一部できるけどもそういうことで、一旦体の中に入っちゃうととんでもないことなるよってのが食の世界ですね。
で、今アメリカの牛肉を解禁しようっていう風になってますけども、非常に恐ろしいと思うのはただただその、政治決着じゃなくて本当にやっぱり国民の将来を考える。そして日本の将来を考えると、やっぱり特に食糧ってことに対してはまだまだその、厳しいあるいは真剣に考えた中で、決断してもらわんと日本の将来、あるいは人類ってのはこれからどうなるんだっていう危惧ってのは皆さんやっぱり持つ必要ある。我々生産者もね。非常にそこら辺は考えながらやらなきゃいけない。で、そこでやっぱり今の酪農の方向性ってのは少し、ちょっと違うぞと、我々生産者がそう思ってるんですよね。


<放牧草>
放牧ってのはやっぱりね難しいのは牧草がね、牛の食糧ですけども、いかにいい牧草を作るかってのが命なんですね。やっぱり、クローバーとイネ科の牧草チモシーとオーチャードとかメドフェスクとか、ペレニアンライグラスとかって色々ありますけれども、それによって、牛の栄養が充足されるか、あるいは足りなくなるかっていう部分なんですね。で、それによって先程から言ってますように、穀物の給与量が減らせるか、あるいは、かなり食わして放牧の酪農になっちゃうか。放牧やって、高コストになっちゃえば、放牧やった意味がなくなっちゃうわけですよね。ですから、いかにそのいい草地を作ってそして牛に食べさす。それを半年繰り返す、そして10年繰り返す、15年繰り返すことによって経営がね上向くか、あるいはまずけりゃー停滞する。ここら辺が我々の永遠のテーマなのかなっていう風に感じております。


<農業機械>
こういう風な機械使ったりして、草地管理をしております。でこれは昼食べさすサイレージですよね。こんなんでね色々あの、機械を駆使しながら今の酪農頑張っております。
放牧地の牧区なんですけども、これを電気牧柵といいまして、これをはずすことによってね、牛が出入りする。ここにちょっと水槽ありますよね、これを、こっちの牧区とこっちの牧区の牛がね、水も飲める。そういう風になってます。


<放牧研究会>
常にね一年に何人かこうやって友達とかね、あのー色々な放牧に関心ある人が来て、これが望ましい、これがマズイとかね。どうしたらこういう牧区の掃除ができるだとか様々こう検討し合いますよね。牧道ですけれどもこの通路がねある程度よくなきゃ牛が汚れて帰ってくると乳房炎とか様々な病気になる。通路も良くしておくのが放牧酪農の一つの条件なのかなっていう風に考えております。


<放牧のきっかけ>
なぜ放牧を始めようかっていう風なきっかけなんですけれども、十数年餌とかたくさん食べさせてそうすれば、経営が良くなるっていう風に信じてきたわけです。ですけれども、そうははっきりいってならない。そういうことなんですね。でこれは、なるべく自分の草地でできる草をたくさん食べさすことによって何回も三回もさっきから言うんですけれども、穀物の使用量が減らせる。そうすることによって餌代っていう一番経費のかかる部分が減らせることによって自分たちの経営も安定するし負債も返せるっていう図式なんです。それに気づくためにはすごい時間かかったなーっていう風に思います。15年も20年もです。酪農の指導が放牧酪農も一つの選択肢だよっていう風なことがなかなか認められなかった。近年は言われてますけれども、我々が始める10年前ってのはね、そんなことやったって失敗するぞと、今の酪農の方向ってのはそうじゃないぞと、たくさん穀物を食わしてたくさん搾ることによって酪農家の生活ってのは安定するし、これからもそういうスタイルがおそらく主流になるだろうと、そういう風に言われたのが10年前ですね。そして今もそれは言われております。ですけれども、酪農家の経営状況ってのは土地が平らで穀物食わして、やれるような酪農家ばかりじゃない。傾斜地もあるし、石がごろごろでもってあんまり機械も入っていけない畑もある。色々な条件なんですね。だから、それぞれの酪農家はそれぞれの条件をどのように生かしたら自分たちの経営が安定するか、そして自分たちの暮らしが守れるかってことを日夜一生懸命考えてるはずなんです。けれども、それがいかんせん様々な情報なりね、指導者の夢の中で、どうもどうもたくさん搾るほうに行っちゃうってのが10年前から今の方向なのかなっていう風に思います。


<自主自立>
平成8年に自分達が放牧酪農研究会って始めた。そのきっかけはやっぱりね、自分達の暮らしは自分達で守るしかないぞと、人からこうだああだって言われるんじゃなくて、自分達がこういうような生活したい、こういうような牧場をつくりたい。そして、こういう風にこんなかたちでもって子供たちを育てたい、そういう目標を持ちながらね、放牧酪農に変えてきたんですけれども、それで一番大事なのは自主自立っていうのかな。自分のやり方は自分で決める、そして自己責任、自分で責任を持つ。そういうものが非常に大事、これはもう酪農に限らず全ての分野で大事だと思う。
まぁーそこら辺がぴしっとした考え持ってないと、やっぱり様々な情報ん中で迷っちゃうし、決断はできない。人間生まれて物心ついた時から右に行くか、左に行くか、そしてこのおもちゃが欲しいよあのおもちゃが欲しいよ、これが食べたいよっていう風に日夜、毎日が選択だし決断ですよね。で、これはもう死ぬまで続くわけですから、その決断が正しいか間違ってるかでもって自分の自分の人生はバラ色にも行くだろうし、破滅にも行くだろうしその決断の中には良い友人を持つあるいは良い師匠を持つ、そういう刺激的な人にめぐり合えるかってのも全部実社会に出れば自分でもって求めなきゃいけない。そこら辺で二十歳代ってのは非常に大事な時代なのかなっていう風に我々感じるんですね。で、我々がもしに十代にもってこれだけの選択肢があればやっぱりまだ自分の人生も変わったと思うんですね。ですから、やっぱり今は自由なんですけども、自由な中に迷いもまた生じると思う、職業の選択の自由、あるいは恋愛。様々の彼女色々いるだろうし。そして職業もね。もしかしたら途中で自分に合わないとなれば転職なり色々ある。そういう時に迷うのは当たり前だしやっぱりプチ挫折って今なんか言われてますよね。やっぱり挫折しながら、たくましく自分の人生をどっかでもっていい形でもってね、開花させなきゃならない。それはやはり、良い話も厳しい話も様々ね。こういう風な農家のおやじの話も聞くものも良いだろうし、先生方の話も聞いて色々やっぱりあるんだよと。そして友達の話も聞くし、会社の経営者の話も聞くし、そして新聞も読むし、その中でそれぞれの人生が形づくだられてくるだろうし、そしてそれに賛同した人が伴侶になるだろうし、そしてそれに賛同した人がまた我々のようにね放牧酪農研究会、まぁー7戸で最初やりましたけれども、そういう同士が集まると意外ととてつもないことできるんだよね。
先程言ったよう多勢に無勢でも自分達が結果を出して行政なり、農協に認めさせて、そして結果が出ればこういうとこでね、みんなに話を聞いてもらえる。こういう風になったってのもやっぱり真剣に今までの自分達の反省なり、希望なり、そして子供たちにこうなってほしい、そんなことを日夜その、父さん母さんと話をする。そして農協の人とも話をする、役場の人とも話をする。そういう経過がね、だんだん酪農ってこんなにすばらしいんだっていう我々酪農家自身がね、思えるようになったんだよね。だから、自分達の仕事がすばらしいと思える、そして自信を持つようになるとやっぱり自然とねお金もっていうか経営もね良くなってくるし、時間も自分達がこう取れるようになるんだよね。
だから自分達の研究会ってのは、放牧酪農研究会っていうのが、あるんですけれども、別名ね「家族でニュージーランドに行こう会」っていうことでもあるんですよね。これはメンバーがね、なんか夢のあるそのタイトルつけようや、ただただその金を儲けてどうのこうのじゃなくて、なんか成功したあかつきにはニージーランドに家族で行こうやっていうことでメンバーがつけた名称なんだけど、それでもって自分達のメンバーも去年一昨年ですか、2メンバーが夫婦でニュージーランド行ってきました。自分達も去年本当は行こうと思ったんだけど、ちょうど母親が病気でねちょっと行けなかったんだけど、そういう風に自分達やっぱり仕事やる中でも目標持つとねやっぱり仕事にも意欲が沸いてくるし、真剣にね仕事をするようになるし、そして子供たちにもこういうこともできるんだよっていう風なこう手本見せれるようになるんだよね。だからこういう風になるまでには色々まぁー挫折もあったし、いろいろな人の忠告もあったし、罵声もあったけども、人間生きていく中ではね、挫折はつきもんだし、悩みはつきもんだしね。でも喜びもあるし、希望もある。そういうことを信じなきゃだめだし、そして信じながらやってると、なんかね、応援する人が現れてくるんだよね。不思議とね。だから、ほんとにね自分でこんなこと、こんな人生ってあるのっていう風な感じで、今まで十年間仕事してきたんだけど、不思議な感じするんだよね。


<経営学習会>
だから自分達最初グループつくった時には何をしようかと思ったら、今経営苦しいよって5,000万も
6,000万も負債持ってたわけですよね。そしたら、まず自分達の今の経営状態をあからさまにしようと、借金いくらあるんだそして儲けはいくらあるんだってことをグループ全員が公表してもいいぞというコンセンサスできたんだね。で、これで取り扱い注意ってこれちょっと前の人しか見えないけども、農協職員が資料作るんですよね。で、これが平成8年からね平成14年までっていう風にこう総収入、そして経費、そして所得っていう風にこうランク付けして。君たちの資料には無いんだよ。これマル秘だからね見せられないんだけども、こういう風に自分たちの平成8年の現状とそして、放牧でもってある程度結果が出た平成10、これはちょっとね14年なってるけども過去と今を比較しようとそのために、平成8年に今の現状の数字をあからさまにしてそして我々の目標に向かって頑張ろうやっていう風に頑張ったのが自分達今の結果なんだよね。だから、ただただその傷口のなめあいをするんじゃなくて、ただただもくもくと仕事するんじゃなくて今の経営の状況、乳量はどうだ、乳脂肪はどうだ、蛋白はどうだ、そして労働時間はどうだ、そして負債はどうだ、色んなことをね数字に表して9年間頑張った結果、ちゃんと負債も順調に払われてきてるし、そして先程言ったように家族でね、夫婦でニュージーランドも行ってくるよと、あるいは国内旅行もしてる、そんなのが今の我々のグループの現状なんですね。だから、この写真いいでしょ、みんなで集まってわいわいがやがややるんだよね。悩みも喜びもね。だから自分一人でね、悩んでると、やっぱり道開けないから、たまにグループ、他のグループっていうかな、他の人も呼んでね、この人は我々の師匠である三友さんっていう人ですよね、牛を減らして所得を上げようと、この人はやっぱり適正頭数、適正規模って言ってますよね。今の大規模化ってことに対しては批判的ですし、ちょっと問題ありだよっていう風なことを唱えている人でもあります。でーやっぱりね、常にモニタリングすることが必要ですよね。草とかね、牛とかね。で、一番、モニタリングしなきゃいけないのは人なんだよね。人間がやっぱり本当に健全な経営者になるための心がま
えなりをやっぱりモニタリングするためにディスカッションもするし、こういう風な数字もね、あからさま
にするし、この中で自分達がそんなにねあくせく働かなくても、牛に牛らしい仕事をさしてそして所得を上げるような努力をしております。


<質疑>

Q:冬場の飼料形態はロールだけなんですか?
A:食べさす物は乾草と牧草サイレージとあとはコーンサイレージ。これがほとんどです。牧草サイレージはロールサイレージがすべてですね。あと穀物、あの濃厚飼料。

Q:最初7軒の農家さんで始められたという風におっしゃってました。今日お話した佐藤智好さんのところの経営の概況なんかはかなり詳しくお話をしていただいたんですけど、他の6軒の農家さん達(当研究会のメンバーの人達)は、皆おんなじようなやり方をしてるんでしょうか?
A:放牧っていうのもね先程新名先生がおっしゃってましたように、色々な放牧まだあるんですよね。こういう風にね区切ってねワンデイグレッジって、グレイジングっていうんだけど、毎日その牧区を変えるっていうやり方もあるんですけれども、一日中こういうね牧場に放しっぱなしっていう酪農家もいるんだよね。何が違うかってなると、これはまぁー次の牧区、ねこう移っていくんだけど、だいたい草の伸びってだいたいこうね、だいたいあーい、いい感じで牧草があるよっていうのがつかめるんですね、ある程度確立高くね。で、ある程度やっぱりあのー安定的な牛乳、生産をしたいってことなるとやっぱりこういう風なやり方がいいのかなっていう風に思います。で、こういう風に一面でやってる人はあんまり借金もないしね、牧区え、牛をこっちやったりあっちやったりやるのは面倒だよ、まぁーこれゲート開いたりしなきゃいけないですから面倒だよっていう人は、で、俺はまぁー大雑把でいいんだっていう人はまぁーほんとにね、こういう風な形で年中やってる人もいるんですよね。で、それでもあの、ちゃんと経営はなりたっております。
あともう一つはですね、えー放牧これですね放牧地が少ないからたんに、こっ、ねこういう風に放牧地がこれしかないから、したらー半日ずーっと放牧するよー、この一牧区にね三日も入れるよ、あるいは四日も入れるよっていう人もいるんですね。で、昼前に牛を入れて、で、昼は先程言いましたように人間あるいは機械でもって餌をやるよっていうような放牧の仕方もあるんですよね。

Q:その7軒の濃厚飼料のやり方は普通より少ないとは思うがそれぞれやり方が違うのかなっていう気がするんですけどいかがでしょう?
A:僕は放牧農家にしては割りと穀物は使ってる方かもしれないですよね。量的にみると2tぐらい使ってます。で、使ってない人はやっぱり1t、1,000kg切れるっていう人もいますよね。で、乳飼比でいいますと10%を切る人もいるんです。乳飼比っていうのは、牛乳代のうちの餌代がまぁー何%になるかっていうことですよね。牛乳代に比較して餌代が7.9%〜21%、ですからたくさん絞って乳飼比が低ければ低いほど所得は上がるってことになります。単純に言いますとね。でー我々のグループん中ではやっぱりあの、牛の乳量がね5,000、6,000kgぐらいでもって1tぐらい。乳飼比が10%ぐらいっていう人もいおります。自分の主義はこうなんだっていう人もおりますからどれが良いとか悪いとかっていうのはそれぞれの考え方なのかなっていう風に思います。

Q:はい、ありがとうございます。あの、おんなじ放牧やってても多少それぞれ農家によって違ういうことですね。でも、あのーえーさっきの乳脂比自体は他の農家に比べるとずーっと低いというあの買い餌は少ない……
A:これねやっぱりひどい人になりますと40%45%ねー、えー僕も始まる前は35%いくら搾ったっても
う、こんなにいっぱい搾ったって餌代がこれねこうなっちゃえば儲けなくなりますから、だからやっぱり
ね、今のあのーまり、あのーなんちゅうんだろうな魔力っていうのかな見えない部分っていうのかな、ほん、それこそね標語であるけど、赤信号みんなでわたれば怖くないっていうけどもやっぱり赤信号はやっぱり赤信号なんだよね、みんなでわたっても怖いことは怖いっていうことを認識しなきゃいけないかなとかと思ってね。

Q:えーと、放牧酪農にするにあたってどんなことを勉強したらいいんですか?
A:やっぱり、放牧酪農家を訪ねることでしょうね。微妙にそれぞれ考え方違うし土地の条件も違うしね、だから何件かまわっているうちに、あ、自分の条件、自分のやりたい放牧とあー似てるなっていう人にめぐり合えると思うんだよね。それと同時に、放牧の先進地であるニュージーランドに行くとかね俺達のメンバーの息子さんが高校卒業して短大のほうかな? 二年、卒業してニュージーランド行ったっていう人がおりますから。やっぱりそういう形で国内だけじゃなくてね外国へ行くっていう方法もあるしね。あとは、なるべく様々のね雑誌とか先生の話とかで、放牧ってのはどういうことだっていうことを理論的にもね、頭の中に入れておけば農家へ行っても話しは分かりやすいよね。

Q:理論的な話っていうのは、栄養学とかそういった……
A:いや、そういった、そういうことまでいかなくても例えばどういう牧草が放牧に向いてるとか、あるい
は牧道はなぜ必要かとか、あるいは先程言ったように牧区の区分けですよね。単純なちょっとした知識があるとないとではもう全然違うからね。

Q:えーと、5つぐらい機械がでてきたんですけどその使い方っていうか用途とか……
A:いい牧草地を保つためには、二通りの方法があるんですよ。牧草地を機械で掘り起こしちゃってそして新たに牧草を播くっていう方法と牧草地の上に牧草を播く方法がある。追播っていうんですけども、そういう機械なんです。草地を耕起して新しい牧草地を作るってことはお金がかかります。ですから、なるべくお金をかけないようにするために、そして同じように牧草生産が持続するようにこういう機械を使ってね、牧区の種だけを播いてそして牧草地を蘇らせる。この追播機がシードマチック。でこれは機械なり牛なりが草地に10年も15年も入れておきますと、やっぱり、土が固まるんですよね、そうすると牧草の生育も悪くなるということで土をやわらかくする、浮かすんでね。
こういう風にやって下にこうねこういう風な爪、ちょうどあのジェット機の尾翼のような形ねこうやって
もってちょっとこう浮かすんですよね、こんな形の機械がサブソイラっていうのがあります。これは全部ニュージーランド製ですけどもね。これもちょっと似てるんですけども、浮かすまではいかないんだけどもこれは草地を切るんですね。土を切るっていうのかな、そして空気の流れとかあるいは、水の浸透性をよくする。そして牧草の根が張りやすくなって、養分の吸収よくなって牧草の成長が促進されるそのための機械です。

Q:ありがとうございました。 あと、もう一つなんですけど、
僕の家は府県のその酪農家のやってるんですけども、府県だとこれからどういうような形態をとったらみたいなアドバイスがほしいのですが……。
A:あの、府県のあのどういうところに住んでるかにもよるんですよね。気温の低い山沿いであってそして牛舎近辺にある程度の農地があればね、放牧酪農も可能だと思うんですけれども、やっぱり、どうしても乳牛っていうのは暑さに弱いですから30℃以上を超えますとなかなか放牧でもって牛乳を生産するっていうのはキツイ部分あるんだよね。だから、東北とかあるいは四国、九州でも本当にそのかなり標高の高いところであれば可能なのかもしれないですけどもね。で、もし内地から移転するとかね、新規就農とかね。で、僕も移転したんだけど、やっぱり人生自分の目標をね、希望通りにするためにはねそういう決断もねどっかで必要なのかもしれない。でも、自分の今住んでるとこでそういうことができるんであれば、その方がお金はかかんないしいいですよね。住みやすい、住み慣れてる土地ですからね。


Q:すいません、あのー草地更新とかはしないんですか?
A:原則としてなるべくしないように心がけております。草地更新しますと、土壌が変わるっていうのかなー、そんなんで意外と牛が食わないとかね、そんなのもあったりしてやっぱり微生物とかそういう動きが変わるんだよね。で、あともう一つは先程言ったようにやっぱり草地更新することによってお金がかかるってことだよね、やっぱりトラクターでもって起こして、そして土を細かくしてね、そしてまた新たにあの機械を使って牧草を播くっていう作業で結構お金がかかる。そしたら10a当たり数千円なり一万円くらいかかっちゃう。そんなこともあってなるべく起こさないでやるためにはこういう機械をつかって、牧草を追播してやるほうがむしろいいのかなという風に思います。

Q:労働時間の減少ちゅうのが非常におおきな効果の一つだったんですけども、現実は糞尿処理の軽減だとか、飼料生産量の軽減だとかそういうのはわかるんですけど、それは大体お父さんの仕事でないかと思うんですよね。だからこの放牧酪農をやることによって一番苦労しているお母さんの労働時間はどうだったのかなっていうその変化がもしわかれば教えて欲しい。
A:酪農家っていうのはご多忙にもれずやっぱりお母さんもね結構仕事があって、やっぱり搾乳とか餌やりそういうキツイ部分は男性陣はそうですけども女性のそういう労働もね同時にね解放されたっていうのがあるんですね。あのーよく思い出すんですけども自分達があのーまぁー本当にね放牧やる前はまだ子供達小さい時代で運動会とか学芸会のときにねやっぱり、一回牛舎に帰って牛に餌をやってもう一回学芸会とか運動会見に行ったっていう覚えあるんですよね。だからそれを単純化することによってわざわざその牛舎にもう一回戻るとか、昼に仕事しなくても子供達とふれあいもてる持てたっていうのが持てるようになったっていうのがね、放牧酪農のまた一つの、こう普通の酪農と
違う、違いなのかなっていうふうに思います。
生徒:そういう面ではお母さんも楽になったと、で家族の触れ合う時間が増えたと、そういう風に考えていいんですね。ありがとうございました。

Q:あの良くですね、一般的に出る質問としてですね、どのくらい農地があったら放牧はできるのかっていうのをよく聞かれるんですよね。これはまぁー先程一頭あたり30aとか50aっていうような佐藤さんのお話であったんですけども、最低どのくらいあればこの放牧は可能なのかっていうことを教えていただけませんか。
A:一般的に言えば面積よりもむしろ草量ね。牧草生産が高い地域であれば、例えば札幌近郊であるとか、北海道内やっぱりあったかい地域であれば面積はあまり少なくて済むってことになるだろうし、天北とか別海とかね、足寄もやっぱり我々の住んでいるところは標高も高いし気温も低いからやっぱり牧草の生産量も低いからある程度の面積必要ですよね。ですから、面積も必要だし、ある程度草量が確保できれば20aとかねそういう面積でも可能だと思うんですね、一頭当たりね。ですから、それは多い面積があればいいですけども、なけりゃー無いなりのまた放牧もできるのかなというふうに思います。

Q:それから、あのやっぱりその農地がですねやっぱり隣接しているっていうのが絶対的な条件ですよね、もしそのつど離れてたらそれはどういう風に工夫したらいいんですかね?
A:えーやっぱりあの、交換分合とかねいろいろな形で行政とか農協が取り組んでおりますけれども、そんな形でやるも一つの方法ですし、例えば放牧酪農したいよっていう人であれば、僕は昭和50年に移転したようにですね、移転するっていうのも一つの方法なんだよね。ですから人生なり仕事には転機ってのが訪れるしそういう選択肢も含めてね考える必要があるのかな。

:僕も何回か足寄の放牧研究会の方に出させていただいたんですけども、男だけで話してるんじゃなくて奥さんが来てらっしゃるっていうことが随分違うような気がしてですね、満足感というのを我々調べさせてもらったら非常に満足感が高いという結果が他の牧場に比べてすごく高いという結果がでたんです。その満足感が高い理由っていうのはどんな風に佐藤さん思われてらっしゃいますでしょうか?
A:自分達酪農家の父さんとしては、自分の奥さんが酪農家の妻でよかったよっていう風に言わせるのが、みょうりっていうか本当のあーやっててよかったって、俺もやっぱり妻を幸せにしたよなーっていう風に思うときが一番の実感だと思うんだけど、そのためにはねやっぱり仕事ん中での喜びと仕事ん中での時間と家族がーこういう形態にして良かったっていう風な実感がね伴えばね、満足感ってえられると思うんだよね。だから、あの海外旅行も行けるよ、国内旅行も行けるよそして子供達も理解してくれるよ、そして何よりも夫婦が仲がいいよ、そしてグループ同士も結束が固いよ、そして行政も組織も応援してるよっていうような形がねできればね、自分達としては最高だし奥さんも納得してくれるのかなと思います。そんな風な方向に自分達のグループは今近づきつつあります。

Q:改良草地をこういう追播の仕方で永続性を持たしてうまく使ってこうっていうことなんですけども、これをもう一歩進めると野草だとか混木林も使えないかなっていうそう考えあるんですけどそこらはどうですかね?
A:そうですね、牧草って我々言ってるんですけども、牛の食べる草は雑草も食いますから、ですから牧草に限らないんですよね。やっぱり食べる草は全部牛の栄養になりますよね。ですからそういうことを含めてある程度大雑把な形でもって酪農をとらえていかないとあんまり隅々までね完璧にしないでアバウトな考え方も必要なんだねこれね。

Q:若干乳量は落としてもいいっていう、で、所得があがればいいっていうことを考えれば使い方次第でそういう利用が可能だという考えですね。
A:先程乳脂量とかね、乳タンパクとか様々あるんですけども、そういうものももうあまりとらわれすぎ
ちゃうと最後には所得落ちてくるんだよね。経費をかけすぎちゃって所得が出ないっていう部分あるからやっぱり、対角的に見るっていうのかな、そこら辺がやっぱりグループでやってそれに気づいたっていうのが自分達の今の状況ですね。

Q:冬場の牛の管理をちょっと教えていただければと思います。
A:牛はですねあの、原則的にやっぱりあのーホルスタインは北方の生き物ですから寒さには強いんですよね。そして腹ん中で発酵してますよね、で発酵熱がでますから真冬でもねー20〜25℃ある中でも餌さえたくさんね食べさせておけば、十分でそんなに体重減少もしません。ストレスも感じないで飼えることできるんですね。ですから、今結構立派な牛舎作ってますけれども、あまりにも北海道農業は施設投資して施設が立派なために経営が苦しくなってるっていう実態あるんで、やっぱりもう少し真剣に牛の身になって考えてみるとそれほど人間の思いでもってあの建物作っちゃうと、あとあと人間がまたそれで苦しむっていう現状もあります。なるべく自然の中で牛はたくましく育って欲しいっていうのが自分達の願いですね。

Q:放牧酪農がいいところばっかり強調されてますけども、放牧酪農の短所もあるんでないか思うんですけどもどんな風にお考えですか?
A:そうだねー、やっぱりんーまぁーどっちかったらねやっぱりプラスのほうが多いんでマイナスのほうを探すのは大変なんだけど、世界中探しても放牧で所得があがればねこれ以上の方法ってないんだよねこれね。なんていっても自分達が欲しいのはお金でありね、時間でありね、家族の満足でありね、そして達成感であるっていうのが、放牧できる条件があればなんかそれが達成されるんですね。ただ一つこれから乳価が下がった場合にはどういう風にその対処していったらいいのか、っていうようなことがこれからやっぱり課題としてでるであろう。ただそれは放牧酪農家に限ったんじゃないんですよね。大規模にやってる人もそういう部分の問題はでてきます。
先生:あとなければおわりますけどもよろしいですか?
これ終わったあともですね佐藤さんがいてくださいますので、個人的にちょっと聞きたいことがあれば、聞いて下さい。それでは最後にお礼の拍手で終わりたいと思います。どうもありがとうございました。




 

 

 

 

 

 

 

 

 




教育ファームについて
 
皆さんこんにちは。今日は最後(夕方)の授業なのでだいぶ疲れていると思います。私はただの百姓です。皆さんの希望に合わない話でしたら自由に寝ていて構いません。ただ、興味がある人は、話の途中で色々質問されてもよろしいです。これから私が今まで取り組んできたことをお話したいと思います。
まず、私は帯広で酪農をしながら、ジェラートショップ「ウエモンズハート」を経営し、酪農教育ファームという取り組みをしている、広瀬文彦といいます。


(私の曾祖父母の北海道への入植)
我が家は大正7年(今から80年以上前です)、岐阜県から今の十勝地方に移っております。その時、私のひいおじいさんおばあさんは47歳と42歳でした。当時は人生50年の時代ですから、結構高齢の夫婦が8人の子供を連れて、十勝に移ってきたのです。最初に女の子が3人できたので、北海道に移ってくる前に2人をむこう(本州)で嫁がせて、3番目の女の子と4番目以降の男の子をぞろぞろと、計8人の子供を連れて移ってきたそうです。北海道で暮らしている人間には、ほとんどが内地(本州)での生活を切り詰めて移ってきた方が多いと思います。北海道に移ってきたからといって、決して生活は楽にはならなかったようです。
十勝管内で2度3度と転々と小作地を変えながら農業をやってきたわけなのですが、たまたま、私の曽祖父が教員の資格を持っていて、なかなか農業だけでは食っていけない中、新たに内地から開拓に入ってきた人達の子弟を育てるために学校を作る、農協所を作る、そういう中で一応公務員という職を得たわけです。


(祖父母の時代)
10年、15年と経っていくと、(曾祖父母の)息子である私のおじいちゃんが(14歳で曾祖父母についてきたのですが)、20歳近くになって食べるだけは農業ができていた上、それプラス曾祖父の教員の給料があってお金が貯まりましたので、(北海道に来てたぶん14、5年くらいの昭和の7〜8年頃)中札内村に土地を買って自作農になりました。そして家も建てたそうです。しかし、それから数年経って(昭和13年)、おじいさんが結婚して子供ができて(私の父親です)、30歳になった頃です。十勝という地形を考えると、北に大雪山があって〜西側に日高山脈があって〜東側の方は釧路との境目にちょっと丘陵地帯がある、〜十勝平野は帯広を中心に、気候は一番帯広あたりが良いのです。
郡部に行くにしたがって、遅霜があったり早霜もあったり、そういう状況でした。中札内村は帯広から40km も離れているわけですから、(おじいさんの話によれば)帯広に比べて半月遅く霜が降りる可能性がある村〜秋は帯広より半月早くまた霜が降りる、作物は同じ十勝の中でも春と秋で1ヶ月違っていたのだそうです。いくら自作農になったからと言って、なかなかそこで営農を続けるのは大変だと考えたわけです。
ひいおじいさんにしてみると、もう70歳近くだし、せっかく自作農になったのだから、そんな所(中札内村)に移りたくない。でも、その息子であるおじいさんはこれからはしっかりした農業をやらなければいけない"と考えて自作農になったのですが、それ(中札内村の土地)を人に貸して、(今は帯広市になっている)そこの地(現在地)へ小作として入り、そして現在に至っているのです。


(酪農をはじめた経緯)
酪農を今やっているわけなのですが、私の父親が終戦後(皆さんは終戦後と言ってもいつの話か分かりますか? 私は第二次世界大戦が終わって6〜7年後の昭和27年に生まれたのですが)、戦後北海道では有畜農業を推進するために道の貸与牛制度がありました。
道が希望する農家に子牛を貸して、赤ちゃんが生まれると次の希望者に渡し、最初に生まれた雌牛は自分のものになる、というようなシステムで、うちも昭和23年に酪農を始めたそうです。1頭から始めて、今現在に至っているわけなのです。


(広瀬ファームの概況)
皆さんにお渡しした資料をめくっていただくと、現在の家族構成とか、経営の内容、私や家族の年齢が書いてあります。今、酪農は私と長男(25歳)(皆さんの先輩で、酪農学園の経済学科を卒業し1年間酪農実習をしてきました。そして今は家で仕事しています。そろそろ年頃なので早く嫁が欲しいなと僕は思うのですが、いたって本人はのんびりしています)と、今3年目になる実習生の3人でやっております。土地は帯広の街に近いこともあって、自作地は27〜8ha位しかありません。その他に借地があり、36.9と書いてありますが、約45haの飼料畑としてデントコーンと牧草があります。飼養頭数はここ7〜8年は経産牛100頭前後で推移していたのですが、16年に大きく減っています。なぜかというと、去年2月に大雪で牛舎が潰れてしまいました。搾乳牛が100頭近くいたのですが、16頭がだめになってしまって、ちょうど折しも若牛の値段がすごく高い時期だったので、買って増やすことはしませんでした。そういうわけで、15年度からみると50頭以上減ってしまい、所得も大きく落ちて……、そういう経営となっています。


(十勝農楽校〜酪農教育ファーム)
次のページの「十勝農楽校」……、私が帯広農業高校を卒業しているものですから、昔は十勝農学校"「勝農」(かちのう)なんてよく言ったものです。特に勝農を愛しているとか愛校精神というわけではなく、自分はこの学校を出たんだ〜そんな意味(で同じ呼び方にしたわけ)なのです。まあ、楽しんでもらって、農業を知ってもらいたいな、そんな意味で、教育ファームを「十勝農楽校」と名づけて受け入れているのです。
平成3年からずっと続けております。当初はミルキングパーラーの2階に見学室を併設しました。当時の大工さんには「人の仕事が見えるような形で作ったって誰がそんなの見に来るんだ? そんな奴いねえよ」なんてよく言われたのですが、自分自身も全然、誰かが来てくれるなんて思ってもみなかったのです。ですが、見学者は除々に増えて、平成12年以降〜酪農教育ファームという言葉が皆さんの口に上るようになってからは、なおいっそう増えてきたことが数字に現れております。様々なグループが来てくれます。教育ファームというと何か子供達だとか学生に教えなければいけないのかな、そういう風に感じるわけなのですが、そうじゃなくて、消費者のグループも相当あるのです。
昨年変わったところでは長野県警の警察学校の生徒さんたちが体験に来てくれました。何を勉強しにきたのかな?と僕は思うのですが、ただ搾乳体験をやってみたい、アイスクリーム作り体験、そして私の酪農の話を聞いてみたい、ということで来てくれました。盲学校や聾学校だとか、そういう子供達も体験に来てくれたり、様々なニーズがあるわけです。見学は5月から9月あるいは10月くらいまでに集中します。もう農作業もすごく忙しい(北海道は半年間雪に埋もれちゃいますから)、そういう時期に集中するということもありまして、本当に大変なことも多々あります。そういうわけですが、まあ、好き好んでやっているというわけです。


(ジェラートショップウエモンズハート〜その名の由来)
次の3ページ目に「ジェラートショップウエモンズハート」とあります。「ウエモンズハート」とはどうい
う意味か? 英語でこんな言葉があるのか?と聞かれます。うちの先祖(ひいおじいさん)は広瀬初次郎といいますが、その親まですっと8代〜約300年にわたって「うえもん」という名を名乗ってきたのです。その「うえもん」の名をいただいて「ウエモンズハート」としました。なぜこの「ウエモンズハート」が思いついたかというと、我々は若い頃フォークソングとかエレキギター、そういったグループサウンズがよく流行ったのです。その中であの「コンドルは飛んでいく」とか「明日にかける橋」を歌っていたアメリカのサイモンとガーファンクルがありました。たまたまその歌を聞いていた時に、サイモンとウエモンって、よく似ているなと、ピンときたのです。そこで先祖の名前をいただいて「うえもんの心」としました。漢字でもアルファベットでも何だかださいので、カタカナで「ウエモンズハート」としたところがミソなのです。「これはどういう意味なんだ?」と、学のある人ほど一生懸命辞書で調べるのです。お年寄りは「名前だろうな」とよく言ってくれるのですけど。


(ジェラートショップウエモンズハートの概況)
ウエモンズハートは平成11年4月30日にオープンしました。大して手持ちのお金がないのに約4,400万円投資しました。建物・機械・その他とありますが、その他は開業資金です。例えばテーブルとか小物とか色んな物を入れて約4,400万円かかりました。どうやってお金を調達したかというと、自己資金はわずか700万円ですが、機械のリースで1,700万円、そして農協から土地を担保に2,000万円借りて、そして何とかスタートしました。ジェラートは首都圏では300円くらいで売っているのですが、この田舎で300円というと、そんなに高いお菓子もなかなか無いので、250円に値段を設定しました。損益分岐点というものがありまして、大体1日200個〜5万円の売上……、借金を返す・リース代金を払う・それから人件費・電気水道料金などを含めて1日5万円の売上がないと経営していけない、そういう計算が成り立つわけです。まあ3年ぐらいは赤字でも仕方ないかな、と思いながら始めたのですが、ここに書いてある通り、初年度(4月30日からですので約8ヶ月間の営業です)から黒字にさせていただきました。そして今現在の16年度は初年度の2倍以上に売上が伸びております。こんなかたちで始めた時はひょっとするとこれでうちの酪農は終わりかな、と思いながらスタートしたのですが、おかげさまで家内が商売のやり方にすごく才能がありまして、私はたまにちょっと顔を出しては「どうだ、お客さん来てるか?」という程度なのです。
自分の農業高校時代には8桁農業を目指そう、という先生のお話がありました。8桁農業と1,000万円を売り上げる農家になりたい、それを目指そうというスローガンがあったわけなのです。酪農とアイスクリームを合わせて、今我が家は9桁農業になっています。ただ、問題はいくら残っているかということで、先ほどお話しましたように、去年牛舎が潰れて酪農の方は大赤字でした。そのあたりはアイスクリームの方で補綴していただいて何とか年が越せたかな、そんなような経営をやっております。


(私の半生〜幼少時代)
酪農教育ファーム、これはきっと目新しい言葉ではないかと思いますが、少しずつ学校の先生方に理解されています。この教育ファームについて今日はお話したいと思います。なぜ教育ファームなの?というところから始まるのですが、その下に「私の半生」を書いてあります。実は私、子供の頃はすごく「いい子」でした。頭がいいとか顔がいいのではなく、家の手伝いをよくする「いい子」だったのです。当時(僕は昭和27年生まれですから第二次世界大戦直後)は、まだまだ農業は馬でやっている時代でした。本当にことわざにある通り、猫の手も借りたい、というような農作業をやっていたわけです。男の子が生まれたら、それはもうすごく家族は喜んで「稼ぎ手が増えた」と。そんな形で畑の作業〜種を播く・草をとる・そんなことを小学校の小さいうちから手伝っていました。それから当時、燃料は薪だとか石炭を焚いていました。薪などは買ってくるわけにいかないわけで、それは自分達で切って・割って、家の壁や軒下に積んでおく、そういう作業もありました。それから水も……、うちは帯広市西23条という場所でありながら6歳位になるまで電気が通っていなかったのです。ですから水道なんて
ありませんし、地下水を汲み上げるポンプも無いわけですから、水を汲む、あるいは子牛に水をやる、そのような、ともかくありとあらゆる仕事があったわけです。手伝うのが当たり前"という時代でした。じゃあ率先して手伝ったのか?というと、そうではなくて、言われたからきっとやってたんだろうな……、と今思うわけです。


(私の半生〜中学校時代)
中学校位になれば1人前なので、例えば秋に脱穀した60kgの俵を地面からしょって馬車に積んで、そして運んで行かなければいけないと言われるのです。あるいは、牛屋の息子なんだから、搾乳中の搾りくらいできなければだめだ、と。そこで朝、学校へ行く前に1頭の牛を預けられて手搾りして、それから学校へ行くようなこともありました。ともかくその家の手伝いが優先なわけです。中学校に入ってクラブもやりたいなあ、ブラスバンドなんか見ていると、楽器が吹けていいなあー、先生に聞くと、土日によく練習するよ、放課後ももちろんやるし……、それじゃあ家の手伝いがあるから、クラブはあきらめよう、と思ったわけです。とにかく学校が毎日あればいいな、土日なんかなくてもいいな、毎日学校があって毎日好きな事ができたらなあ、などとよく思っていたのです。そんな意味では消極的にたぶん「いい子」だったのでしょう。中学校3年生になり、いよいよ自分で進路を決めなければいけない時代になってくると、そこでもやはり「いい子」の本領発揮です。ある時親父に「俺、帯広農業高校行こうかなあ」と言ったんです。そしたら親父は「それいいなあ、おう、そうすれ、そうすれ!」。もうそれで決まってしまったのです。でも、自分の気持ちの中では、まだ14歳の子供に進路を決定付けられるなんて思ってなかった。「まだまだ若いからね、おまえ、好きな学校選んで、好きなことやってから、まあ酪農でも選べ」とでも言ってくれるのかなと期待して、甘い考えで「農高行こうかなあ」といい子ぶって言ったら、「そうだな」なんて言われて、決まってしまって農業高校に行ったのです。



(私の半生〜高校から短大時代)
農業高校は1年生の時は全寮制で、1週間おきに農場の仕事、それから寮の掃除とか牛舎の仕事・豚の仕事・鶏の仕事、そんな感じで、1週おきに朝と夕方、早く起きて仕事がある実習場の生活でした。その中で、先輩が学校に尋ねてきてくれて、海外で酪農実習をしてきたお話をしてくれたのです。その頃の昭和41〜42年は東京オリンピックが終わったばかりで、まだまだ我々庶民が海外に出て行こうだなんて、ちょっと考えられない時代でした。でも酪農やると海外に行けるんだ、そんな風に思いまして、これは絶対もう海外に行きたいな、海外に行くにはどうしたらいいんだ? 当時は、ブリーダーと呼ばれる酪農家へ実習に行き、そこで2年3年実習して認められると、アメリカとかカナダのそういう酪農家に派遣してもらえることがありました。そうやってアメリカに行けるのなら実習に行かなきゃ。そんな感じで何か1つ自分の目標ができたと思い、一生懸命勉強しました。そして、高校が終わってこちらの当時2コースという冬だけの短大に来たわけなのですが、夏の間、千歳市の(当時は早来)牧場に実習に入りました。そして、1年2年と実習して海外に行くつもりだったのですが、結局、家の方が大変だから「もうよその実習はいいから、家に戻って来い」と……。まあ親父にそう言われても、まだ18、19歳ですから、まだまだ人生そんなに慌てる事ない、いつでも行ける、と思いつつ家に戻ったのです。


(実家に戻ってから)
海外に行きたい、という想いは募るわけなのですが、若い稼ぎ手が家に入ってくると、そういう歯車を親はもう外したくないのです。結局、経営の柱の歯車の中にどんどん取り込まれて、何か……日々あがくのですけれども、結局何ともしようがない……。そこでついに私は「いい子」をやめて「悪い子」になったのです。どう悪い子になったかと言ったら、ただふてくされていただけなのですが、ともかく家では仕事はしよう、でも夜は家にいたくない。当時はシャワーとかありませんから、水で顔をばーっと牛舎が終わったら洗って、毎晩のように出て行く。悪い友達がいたものですから、毎晩誘われるし、毎晩出て行く。まああの頃はお金が無くても結構飲めたなと、今思うのですが、そんな感じで3年4年と夜遊びばかりでした。家に帰ってまじめに仕事をやっているとは言うのですが、昼間トラクターに乗って畑に行けば、(眠くて)トラクターが崖から落ちそうになったりするものだから、トラクターの上で昼寝したりなんかして……。ある時帰りが遅いから、親父が飛んで来て「なんだお前トラクターの上で
寝ているのか」と。まあ、本当に心配したような親父の顔は初めて見たなと思ったのですが、それくらいふてくされた時期を送っていました。


(女房との出会い〜結婚)
そんな時に今の女房と出会ったのです。大勢の彼女に振られ、5人6人と振られっぱなしだったのですが、歩止まりは悪かったけれども、最後にいいクジ引いたわけです。22歳の時に出会って、少しずつ付き会いを始めるようになって、彼女が洋裁学校に通って、教師になった頃に、色んなことに興味をもってくれました。牛の話をすると「えっ? 牛って赤ちゃん生まれなきゃ乳出ないんだ! 乳牛って成長しておっぱい大きくなれば、お乳出すのかなと思ってたよ」とか、家へ遊びに来てなすびなんか見ると、「へえー、なすびって、花から何から全部紫なんだ」……こっちにしてみたらそんな事は当たり前だろう、そんなことにも感動してくれて……。あるいは当時すいかも作っていまして、黄色い大きい花が咲いて受粉すると小さな実ができますが、それを見て「すいか、こんなちっちゃいうちから一人前に縞があるんだなあ」……ともかく、わけ分からんでもすごく楽しんでくれているわけです。自分は
子供の頃からずっと手伝っていますから、何でも分かっているので、本当にこいつは分からん奴だな、みたいな感じで色々教えてあげました。ある春に、雪解けでその周りが乾いた時に、防風林の下から小さいプチプチした丸いとげの卵みたいなのを拾ってきたのです……手に載せて。それ、ウサギの糞だったんですよ。
おまえはどういう子じゃ! そんな感じで見ていたわけです。そんな彼女と2年3年と交際して、ようやく
26歳の時に結婚の運びになりました。


(小豆が与えてくれた感動)
結婚当時はまだ小豆を作っていたので、あずきの草とりに家内と母親が行きました。私はそういう仕事が嫌ですから、トラクターに乗る仕事ばかりやっていたのです。ある時家内が帰って来て「小豆ってすごいね」と突然言うのです。「何がすごいんだ?」と聞いたら、我々の畑はちょうど南北の方向に植付けをするわけで、小豆は種を蒔いて双葉が出て本葉がでてくる、そういう時に雑草に負けないよう草とりするのですが、朝行ったら小豆が一生懸命葉っぱを広げて、東に傾いているのです。そして昼間はもちろんまっすぐになっているし、午後・夕方になると、西へ傾いているのです。自分は子供の頃から手伝っていたのですが、そんなの見た覚えがないのです。まさかひまわりじゃあるまいし「お前何言ってんだ、小豆がそんな馬鹿な話ないべ!」と言ったら女房に「ウソだと思うなら明日きて草とってごらんよ」とひっぱられて、小豆の草とりに行きました。すると、見たら本当に感動しましたね。小豆は本当に朝、一生懸命東にと傾いているんです。夕方になると本当に西に傾いているのです。本当にその時は何かガーンと自分の甘えを殴られたような、そんな感じがしました。今までは一生懸命やってきたつもりだったけれども、結局何も見てなかったのですね。そんなことに気がついて、そして、ぐれたのも止まりまして、普通の子に戻ったわけなのです。



(教育ファームをはじめたきっかけ〜東京の小学生)
いよいよ教育ファームの元になる話になるのですが、結婚して1年目くらいの時に東京のある6年生
男の子から電話があったのです。「牛乳についてちょっと聞きたい」と言うから、「いいですよ」と話をしたら、「コーヒー牛乳って、牛にコーヒーを飲ませたら出るのですか?」と聞くのです。「えっ!」と思ったのですよ、何をこの子言っているのかな、と。「何でうちが牧場だって分かったの?」と聞いたら、東京都内の学校の授業で農業とか酪農の勉強をしていたら、子供たちの仲間で「コーヒー牛乳ってどうやって作るのだろう?」という話になったのです。その中の誰も家で酪農をやっているわけではないですから、その経緯が分かりません。そこで先生が「牛屋さんに聞いてみよう」と、たまたま帯広市役所の電話番号を調べて、クラス代表の子に教えて電話をかけてきたらしいです。市役所に電話したら「それは農協に聞いてくれ」と農協の電話番号を教えてくれたそうです。農協にかけてみたら「それは牛屋さんに聞いてくれ」というわけでうちにかけてきたそうなのです。本当に知らないのだなと思い、「じゃあ君は、赤ちゃんの頃お母さんのおっぱい飲んで育ったよね?」と聞くと、その子は「いや覚えてない。でも弟が飲んでいるのを見たことがある」と言うので、「君のお母さん、コーヒー飲んだらコーヒー味のおっぱい出るかな?」と聞くと、「出ないと思う」と答えたのです。「じゃあ、牛がコーヒー飲んだら、コーヒー味の牛乳出るのかなあ?」と聞いたら、「分からない」と言うのです。お母さんからはコーヒー味のおっぱいは出ないことがちゃんとわかっているのに、牛では分からないのです。何で分からないのかなと考えつつ、待てよ!と思い「牛乳って何か分かる?」と聞いたら、「よく分からない」と言うのです。「結局、人間も哺乳類というくくりの中で考えれば、子育てのために出すお乳、これが牛乳とか母乳と言われるものなんだよ」と教えました。そこで初めて、コーヒー飲んでもコーヒー牛乳は出ないことが理解できたみたいです。



(教育ファームをはじめたきっかけ〜地元の人たちの知識)
家族の中では「いやいや東京の子供っていうのはとんでもないことを言うんだな」と笑い話になっていたのですが、結婚して子供が出来て、子供がだんだん成長してくると、PTAの集まりがあるのです。PTAの集まりで、うちの家内がさっきしたような話ですが、十勝という農業地帯にある中核都市の帯広の住人でありながら、乳牛は大きくなったらお乳を出す〜赤ちゃんを産むのとは関係ない、と思っている人が結構いるのです。また、自己紹介で「酪農をやっています」と言うと、みんな異口同音に初めて会えば「いやいや大変な仕事をやっていますね」とねぎらってくれるのです。自分でも大変だと思ったから最初は気にならなかったのですが、何が大変だと思うか?聞いてみると、朝早くて休みがなくて"と言ってくれます。でもそんなことは毎日やっていて慣れているし、それだけの話じゃないのです。乳を出すために赤ちゃんを産まないといけない、ということも知らない。ただ朝早く休み
がなくて大変だ〜そういう裏にある仕事を全く理解していないわけです。ある時保育園の父母会の集まりで、親子レクをやろうという話になりまして、一番下の子が年長だった時で、新しい保育園なのでまだグランドも整備されなかったのです。どこでやろうという話になった時に、あるお母さんが、そこの街外れのちょっと行った所に「いい原っぱがある」と言うのです。よくよく聞いてみたらうちの牧草畑なんですよ。「あれは牧草畑だしまだ草刈ってないからちょっと無理だな」と話したら、「牧草畑って何? へえー、ただの原っぱじゃないんだ」と言うのです。あるいはもっとひどいのは、青年会議所に僕なんかが入ってた時があるのですが、街場の色々な商売をやっている経営者の人たちには、牛乳に対する補給金や補助金のことを、例えば農作物が取れないとか、そいういうことに対して、国が生活補助をしていると思っている人が結構いるのですよ。全く農業に理解がない。これがまだ東京とか本
当に都会の人なら、まあ仕方がないかなと思うのですが、とにかく帯広という立地条件で社会的に色々活躍している経営者達がそんなことを言う。本当に消費者は農業のこと全く知らないのだな、と気がついたわけです。ちょうど時代が昭和から平成に変わる頃、昭和60年半ばぐらいです。



(教育ファームをはじめたきっかけ〜農業者が伝えるべきこと)
その頃から農業新聞や何かを見ていると、たとえば食料自給率の問題とか環境問題、あるいは人口爆発とか異常気象、そんな話がどんどん報道されるようになってきました。あんまりそういうことって、自分自身興味は無かったのですが、たまたま農業新聞の中で、アメリカにあるワールドウォッチ研究所の所長をやっていたデスターブラウンという人が地球白書を出しているので買って読んだことがあるのです。その中で昔のイギリスの経済学者のマルサスという人が人口論の中で、人は幾何級数的に増える、どんどんすごい勢いで増えていく、でも食料生産はそんなすごい勢いで増えていけないから、最終的には人口の増加に食料の増産は追いつかない、ということを言っていました。そういう話を聞きながら、本を読みながら色々調べて、人口はどういう風に増えてきたかを調べたら、キリストが生まれた西暦の始まりでおよそ1億人、それから1,000年経って2億人くらいになり、ちょうど江戸時代末期の1800年代の頃には10億人くらいになった、そして第二次世界大戦が終った頃には25億人、そのあとは皆さん記憶にあると思いますが、21世紀になる頃2000年にはとうとう60億人を越したと言われています。そして現在63〜64億。2025年には79億人、2050年には93億人になっている、こんなような予測がされております。どうして第二次大戦後に人がどんどん増えたかというと、衛生指導の普及だとか、一番大きいのは抗生物質が一般庶民にもどんどん使えるようになった、そんなことで人が増えてきたということのようです。また、食料の自給を考えると、本来的には、例えば自分の子供が今日肉食べたい、と言ったら、お父さんお母さんは弓矢を構えてキツネを獲りに行くか、熊を獲りに行くか、そういうものを獲ってこなければ肉は食べられないわけです。あるいは魚を食べた
いといったら釣りに行かなければならないのです。とにかくそうやって、狩猟とか採取をするのが基本でした。そうやって駈けずり回って集めて来るから、日本語ではごちそう"という言葉が生まれたようですが、そういう時代があり、生き物や食べ物がとれないだとか、そういう時代があって種畜、家畜の飼育とか作物の栽培が始まってきたわけで、これが農業の始まりです。またある人に言わせると、環境破壊の一番の始まりは農業から……と言われてちょっと愕然としたことがあるのですが、これも第二次大戦後の化学肥料だとか農薬とかそういうものをどんどん上手く使えるようになって、農作物もすごくたくさん取れるようになったわけです。人口爆発と言われますが、人口は農業と一緒に伸びてきました。我々には毎日食料が口に入るのですが、その反面、発展途上国では何億という人が、食料が全くあたらない、あるいは日々飢えたような形で暮らしているという話もあります。今現在の穀物の生産量は地球上で19億tから20億tと言われていますが、もうそれぐらいが限度ではないかとも言われています。その中で、我々日本を含めて、世界の主要国の食料の自給率はどうなっているのか?を調べると、1970年・昭和45年と、2000年頃の対比ですが、約30年の間にアメリカが113%から132%になり、カナダが110%から152%に伸ばし、オーストラリアは205%から287%に、ドイツも68%から97%、フランスも105%から139%、イギリスは46%から77%、一方、日本だけが60%から41%に落ちているわけです。つまり高度経済成長と反比例するように自給率はどんどん落ちていったのです。自由貿易だとかWTOそれからグローバルスタンダードといった言葉のもとで、何かアメリカの戦略に振り回されているのではないかと感じます。では、我々が食料を頼っている国はどうかというと、アメリカは地下水の汲み上げ過ぎで地下水位がどんどん下がって何年も農業をやれない地域が出ている、あるいは塩害の問題など、我々が頼っている食料の生産国にも障害が起きているという現状もあります。そんなことを色々聞いていくと、十勝・北海道は農業を生産して自給率何百%であるとか、十勝は本当に日本の食料庫だと、我々十勝の人間は自負しているのですが、でもそこに生活している人達は、そういうことをまったく考えないで生活しているし、24時間好きな時に好きなものを食べられる中で生活しているので、身近に感じろといっても無理があります。このことを我々の側から伝えていかなければならない、そう思い(教育ファームを)始めたのです。
ある仲間が子供達に話していたのですが、「君達にとって一番大切な宝物って何だ?」と問いかけていました。皆さんは人に譲れない絶対大切な宝物ってなんだと思いますか? ガールフレンドとかそういうのではないですよ。命なのですよ。命だけは絶対に人に譲れないのです。あの人かわいそうだから、私の命あげるわ、なんてわけにはいかないし、命というのは両親からいただいています。両親もまたその親からいただいているわけです。何代にも渡ってこの命をつないで、この命を続けていくにはどうしたらいいのか? 他の命をいただかなければならないのです。それは動物の命でもあるし農作物という植物の命でもあります。その命とは、我々が代々受け継いでいると同じように、一朝一夕にできるものではないのです。種を蒔いて、作物であれば3ヶ月4ヶ月、ケアして育てて初めて食べられるのです。食料というのは自分達の口に入るまでに時間がかかる、我々生産者はただ作って農協やホクレンに売ればいいだけじゃなく、そういうことも伝えながら、本当にこの自給率でいいのか? 自分達の食に対してもっと考えることがあるのか? あるいは現場から伝えていかなければならないのでは?と、だんだん思うようになりまして、見学できるミルキングパーラーをつくったわけです。先ほど話したように、大工さんに笑われましたけれども、本当に大勢の人に来ていただけるようになりました。
ここで、グリーンアグリチャンネルという所で作ってくれたビデオがありますので、10〜15分見ていただいて、続きをお話したいと思います。



(ビデオ放映)
帯広市内の酪農家から、夏の間、放牧のために牛を預かる、八千代公共育成牧場。ここに預けられた牛達も、山を降りて里帰りする時期になりました。夏の間、たっぷりと牧草を食べて過ごした牛達を引き取りに、酪農家の人たちがやってきています。帯広市内で酪農を営む、広瀬さんも、そんな中の一人です。今日は広瀬さんの牧場で働く、酪農実習生の布瀬川さんと一緒に、夏に預けた10頭の牛達を連れて帰ります。これから向かう、広瀬さんの牧場には誰でも気軽に酪農家の仕事を見学できる、ちょっとしたアイデアが隠されているのです。今日はそのアイデアを探りに、広瀬牧場に伺います。帯広市の中でも、市街地に近い場所にある、広瀬牧場。平成3年に牛舎をフリーストールにして、新しく建てたミルキングパーラーには風見鶏ならぬ、風見牛がついています。
現在、広瀬牧場ではおよそ150頭の乳牛を飼育し、年間、およそ850tの生乳を出荷しています。一時期、乳房炎の多発などに悩まされましたが、今では軌道に乗り、年々生産量も上がっています。ここは広瀬さんご自慢の搾乳室。パラレルと呼ばれるこの搾乳方式は牛のお尻の方から搾乳機を取り付けます。搾乳機の取り外しも自動。一度に16頭の搾乳が出来て、作業の能率も抜群です。奥さんが心臓の病気を患って、牛舎での作業が難しくなった事も設置の理由の一つと広瀬さんは言います。そして、このミルキングパーラー最大の特徴は2階の見学室から牛の動きや搾乳の様子をじっくりと見る事が出来るところにあるのです。広瀬さんはなぜ、搾乳室を見学できるようにしようと考えたのでしょうか?「うちの長男坊が小学校に上がった頃に、女房がPTAの集まりに行って、その中で牧場の話が出て、乳牛はただ餌を食べていれば、年頃になったらおっぱいが大きくなって、餌を食べてれば乳が出るようになるんだよ、という感覚の意見が多くて、お産とかそんなことは関係なしに。そういう部分というのは全然消費者に分かってもらってないというか、その辺を知ってもらいたいというのが一番のスタートですね」。「他の人達も、農業を知らない人達に分かってもらえたらいいなと常々思ってました。で、私自身も農家っていうものを知らなかったので、お嫁に来てすごく面白かったんですね。面白かったって、今も面白いですけども、その、面白かった事が、他の人にすごく分かってもらいたいという気があったので」。「まあ、興味があれば、来て欲しいなっていう事ですよね。現実に最初建てた時は、親父も賛成してくれましたし、女房も面白いからやってみようと、一緒になって楽しんでくれたから、こういう形になった。その次誰々に見に来てもらおうとかね、こう言う人に来てもらいたいという、そういうものは漠然としてるんだけれども、何も無かったんですね。それがここ2〜3年も1,500〜1,600人で、小学生を中心としてですね、すごい数で集まってきてくれます。目的は少しは達成されたかなという感じです」。広瀬さんのミルキングパーラーを一目見ようと、搾乳時間以外でもお客さん達がやってきています。今日は都市農村交流の勉強をしている、農家の方々がやってきました。奥さんとファームインを学びに、フランスに行った経験のある広瀬さん。いずれは、ファームインにも取り組んでみたいと考えています。「ファームインとか、その辺にも興味はあるんですけども、なかなか行動力もありませんし、今後、自分の考えとしては、まず一つの酪農的経営を作って、その上で、出来れば学校とか、そういう事をやって、一つ軌道に乗れば、その次のステップとして……、自分ではそういう風に思ってます」。ファームインや消費者との交流について、広瀬さんはどんな考えをもっているのでしょうか。「本当に、我々は消費者あっての農家ですから、やっぱり理解してもらう、これが第一ですよね。
そしてまた、興味をもっていただければ、焼肉でもしながら1時間でも2時間でも話しようやとか、そういう事からホームステイだとかファームインとかそういうのをやってみようかな、という、感覚ですよね」。広瀬牧場では、昔から数多くの酪農実習生を受け入れています。去年の5月から広瀬さんの牧場で働いているFさんもそんな中の一人です。北海道の自然や農業に憧れて、遠く、埼玉県からやってきました。広瀬さんをパパさんと呼ぶ彼女は、広瀬さんの事をどのように思っているのでしょうか。「自分の仕事に誇りをもってやっているというか、すごい好きな事を……、あ、たぶん好きだと思うんですけど、酪農が。それを仕事にして成功された方だからすごく憧れますね。私も今もまだ分からないんですけど、自分で好きな事を見つけて、それをずっと続けていきたいって思って、だから何にそうやって情熱を傾けたいかを今探している段階だから、パパさんはそれを酪農に向けて頑張っている姿がすごく羨ましいと思います」。「夢を追ってきて、ほんと、一週間や十日でね、やっぱこれじゃないって思って帰っちゃう人もいたけど、やっぱり、やる気があってくれて、本当に一懸命やってくれるし、労働力が足りない家としては、そう言う意味ではすごく助かるし、なおかつ、農業に希望を持ってくれるという事が嬉しいですね。やっぱり我が家に彼女みたいな子がいてね、彼女をお嫁にもらえると幸せになれるのかなぁ」。



(酪農教育ファームの実践)
(ビデオは)もう少しあるのですが、授業の終る時間までに私の言いたいことが言えなかったら困るので、止めてもらったわけですが、このFさんという今の子は、実は酪農家には嫁いでいません。搾乳に若い子がいっぱい写っていましたが、帯広畜産大学から学生のアルバイトに来てくれていたのです。そこの一人と結婚して今アメリカかどこかにいます。研究者になってその人とくっついて、向こうに行きました。幸せな酪農家はできなかったようですね。


段取八分
次に酪農教育ファームの実践についてです。まずは「段取八分」です。この八分とは何割何分の分です。要するに教育ファームには色んなニーズがあり、小学校の最前線であったり、盲学校であったり、社会人であったり、こちらに来て何をしたいのか? 何を見たいのか? 何を聞きたいのか? その事前の打ち合わせをしっかりやって準備をすれば、だいたいは成功します。全く打ち合わせもなしに、「広瀬さんは随分慣れているから、好きなようにやってください」という受け入れをしても、子供達があっちを向いたりこっちを向いたりで、全然教育ファームという感覚にならないのです。
先生やグルプのリーダーがしっかり内容をこちらに伝えていただけると、スムーズな教育ファームができる……、長くやっているとそういう風に感じます。そういう意味で、事前の打ち合わせ、いわゆる「段取八分」とは、段取りが上手くいけば話も上手くいきますよ、ということです。


魚屋さん八百屋さん牛屋さん
次に「魚屋さん八百屋さん牛屋さん」です。話の導入で一方的にどんどん話してもなかなか面白くないのです。例えばクイズで「魚屋さんは何を売っているの?」〜「魚」、「八百屋さんは何を売っている?」〜「……それは野菜だよ」、「牛屋さんは何を売っているの?」〜「牛」……そしたら「ブー!」と言ってやるのです。「牛屋さんが牛を売っちゃったら乳を搾れないんだよな」と言いながら。最初に子供達をこっちに向ける作業が上手くいかないと、何か最後までダラダラと時間を過ごしちゃう、そういう事がありますので、何かこっちを向いてくれるような方法で、とにかくスタートした方がいいなといつも思ってます。


なんでも博士・何でもチャンピオン
それから「なんでも博士・何でもチャンピオン」です。例えば搾乳体験や何かで特に上手な子がいるんです、素人でも……。そこで「君はもう搾乳チャンピオンだな」と誉めてやるのです。あるいは食糧問題とか人口の話……、例えば小学校5年生位なら「今地球上に人口どのくらいいる?」などと聞くと、中には一人くらい「今、60億」と答える子がいるんです。そこで「君はすごい博士だなぁ」と誉めてやると、一人誉めるとみんな集中してくる〜俺も知ってること言ってくれないかな"みたいな感じでね。結構おだてるのも大事なのだと思っていつもやってます。


五感の活用
それから「五感の活用」もあります。どうしても牛屋をやっていると、糞尿だとかその、臭いがやっぱり
しますよね。自分は全然臭いしないと思って子供達に聞いてみれば「臭いな」と言うし、雨上がりの後で天気が良くなると、自分はいつも本当に臭いなぁ、なんて思うことが多々あります。ある時、ある市内の小学校の3年生が来ました。バスから一人ずつ降りるたびに「ああ臭い」「ああ臭い」と全員が「臭い」「臭い」なんですよ。それまでは「いやーやっぱり臭いのかなあ」といつもこう凹んだ気持ちになっていたんですよ。
でもその時はちょっと私もムッときまして、みんな勢ぞろいした時に「臭いか?」と聞いたのです。すると「臭い、臭い」の大合唱です。「どんな臭いする?」と聞くと、みんな「うんこ臭い」「しょん便臭い」と言うんです。でもその臭いかなと思ったら「何かすっぱい臭いする」「何か納豆みたい」だとか「いい臭い」と言う子もいるんですね。ああ、牛屋の臭いというのは糞尿の臭いとそれから餌の臭いなんだ"、サイレージなんですね。それが分かってからは、「ふん尿はただ臭いだけでなく、有機肥料になるんだよ」と説明します。「君達のウンコはどこへ行くの? トイレ行ってウンチしたらお尻拭けるか?」〜「拭けるよー」、「拭いたその後どうする?」〜水に流して終わりですね。その後どこへ行くのかは全然分かっていないのです。そこで、君達のウンコは下水道という所を流れていって最後には終末処理場で処理してくれるんだって。例えばそこの学校が帯広小学校と言うのだったらね」、「帯広小学校の方から流れてきたウンチ、今日は臭えなぁー」と言って処理している人がいるんだよ。〜そんな話をします。それからすっぱい臭い〜サイレージというのは乳酸発酵ですから、皆に「ヨーグルト好きか?」と聞くのです。そして「ヨーグルトはお腹にいいよな。乳酸菌で発酵してるから」。そんな話をしながら、でも、牛の餌も実は乳酸発酵なんだよ。原料が違うから皆にとってはね、すごく違和感あって臭いかも分からないけれど、牛にとっては最高の好物なんだよ。そしたら「おじさん臭くないの?」と聞いてくるので、「おじさんここで40年、50年もやってるから全然慣れちゃって牛と同じなんだよ」、そんな話もするわけです。そういう糞尿の大切さ、有機肥料などの大切さ、それから餌の話もする、そして子供たち全員が「臭い、臭い」と言ってたことがほんの一部になるのです。その中で「あー慣れた」と強がり言う子もいれば、それでもやっぱり臭い臭いという子もいます。ぞろぞろと歩きながら、隣の
子が「臭い臭い」というと、その反対側の子が「失礼だろう」とも言うのです。そうやって子供達を眺めていると、何かその……後ろにある家庭が見えてきて楽しいです。臭いもただ臭いだけで終らせるのではなく説明をするわけです。


子供を静かにさせる技
それからもうひとつ面白い話があるのです。子供達がなかなか言う事を聞かない、ざわざわしていることもあります。ある時、あんまりうるさいものだから、「ちょっとみんな目をつぶってくれ」〜「何で何で?」〜「いいからちょっと、1分でいいから目をつぶれ」。目をつぶると会話がなくなりますね。そして目をつぶった中で、「今皆の目の前に牛がたくさんいたよな。牛は何か喋ってるかな?」と聞きます。その上で「牛は全然喋らないのです。お腹がすいたとかお乳が張ったとかね、そういう時にしか鳴かない。本当に必要な時にしか鳴かないです。実は、牛はおしゃべりじゃない、必要なことしか言わないんだね。君達もこの間ちょっと我慢して必要な事だけしゃべろう」。と言うと5分ぐらいはもつのです。まあ、それ以上になるとまたうるさくなるのですが。でもそうやって、牛は無駄口をたたかない、あるいは、我々が逆に牛を観察することで酪農という仕事は成り立っているのです。本当に言葉で「今日熱がある」とか「お腹がいたい」と言う牛はいませんね。日々の行動の中でその牛の状態を観察す
る、これがすごく大事なんだ、そういう風に伝えたりもします。


盲学校の子供には
あともう一つ、盲学校の子供達が来た時に、酪農をどうやって伝えたらいいのか? 本当に考えました。酪農の一部は運搬業なので(牛に餌を運ぶ、搾った牛乳を運ぶ)、酪農家の手は結構ごついとよく言われるんです。よしこれだ!"と思って、子供達が来た時に一人一人握手して「おはよう、おはよう」と挨拶をしました。一通り終ってから「今おじさんと握手してみんなの両親とかね、それから先生方と何か違うとこ感じなかった?」と聞いたら、6年生の女の子が「はいっ!」と手を上げたのです。何言うかと思ったら「何か汗っぽかった」と言われたんですよ。何か自分が期待していた言葉とは全然違ったのですが、そんな風にして、まずは伝えたかったのです。それから餌についても、とうもろこし、デントコーンの茎も葉っぱも全部食べると話しても、ひょっとしたらデントコーンやとうもろこしがどんな格好をしているか分からないのではないかと思ったわけです。たぶん、実は分かっていても茎や葉っぱは触ったことがないかもしれない。そこで刈ってきて一本一本触らせて、これが茎、これが葉っぱ、皆が食べる所はこの実なんだよ、でも、牛は全部これを食べてくれるんだ。あるいはチモシーやクローバーを刈ってきて一人一人に触らせて、これ、道端にある触ったことのある草だね。牛はこういうものを食べて生きてるんだ。すると、その目の見えない子供達にも色々な形で伝えられるのです。


キャッチボール
それから「キャッチボール」です。これは一方的に今みたいに話をするのではなく、対話形式みたいに「これどう思う?」で、その答えを受ける、といったキャッチボール方式でやると、すごく上手くいと思ってます。


素晴らしき広報マン
こんなことをずっと長く続けてきたわけなのですが、最後に「素晴らしき広報マン」と書いてあります。
これは小学校3年生の子供達を受け入れて、最初のうちは何か一方的に伝えていれば、自分では絶対、消費拡大の効果があると思っていたのです。でもどういう形であるかが全く分からなかったのです。平成11年にウエモンズハートを始めたのですが、そこに30代くらいの若いお母さん方3人グループがアイスを食べに来たのです。ちょうど私の方も仕事サボってアイスを食べに行ったのですが、そこの奥さんが寄ってきて、「広瀬さんですか?」と言うので、「はい、そうです」と返事すると、「お宅のおばあちゃんは元気なんですってね」。突然知らない人に言われたので、「えっ?」と思ったら、「何日か前に、なんとか小学校の子供達来たでしょ?」と言うんです。「ああ、来ましたね」と答えたら、「広瀬さんのお話、家の息子が聞いてきてね、広瀬さんのおばあちゃん、二十歳で結婚してね、40年50年も牛乳飲み続けてるから、骨粗しょう症の検査して60代の時でもまだ20代だねと言われたんですってね」。その奥さんの家庭ではご主人も好きじゃないので、あまり牛乳を飲む家庭ではなかったのだけれども、だんだんと一日に朝ぐらい牛乳を飲むようにしたそうです。そんな嬉しい話を聞きました。どれだけの話が伝わったか分かりませんが、例えば30人一クラスの子供達を受け入れれば、その後ろに親もいるわけですし、小学校3年生の子供であっても、10年20年経てば自分で牛乳を買う、立派な消費者に成長してくれるのです。消費者様々なんだな、という風にとても感じてます。最初は手探りでまったく状況も分からないでやってきたわけですが、こういう店を始めたことによって、少しずつ手ごたえも感じております。


三位一体の改革
それからあと「三位一体の改革」です。これは、自分は消費者に伝えればいいんだと、ずっと思ってやってきたのですが、青森県むつ市のある酪農仲間の話の中で、BSEの原因って何なんだ? 粉ミルクじゃないか?ということがありましたが、それを聞いていたバイヤーさんが、お宅でつくって売ってる牛乳を、全く粉ミルクを使ってない牛から搾ることは出来ないのか?と訪ねたそうです。過去に育てられてきた親牛からはそういう乳はでませんね。これから全乳で育てて親になった牛からしかそういうものは育てられない、搾れないわけです。でも、バイヤーは明日にでも全く粉ミルクを使わない牛から搾った牛乳を出荷できないのか?と聞くのです。それには6年くらいかかりますよ〜生まれてミルクやって育てて、2年経って受精し3年後に生まれて、という風にやっていくと、全体で5〜6年かかりますね。そう答えると「そんなにかかるんだ」、「そんな話なんだ」というような話になりました。それからもう一つ、BSEが日本で発生した時にテレビを見てビックリしたのは、あるスーパーの店員さんが「当店では危険な国産牛肉は扱っていません。安全なアメリカ牛肉しか使っていません」などと大きな顔をして言っていたのです。日本の牛肉はそんなに怖くて、アメリカは安全なのかな?と思っていたわけなのですが、実はアメリカでもカナダ産でもBSEが出たとか色々あるわけです。同じその店員さんにもう一回徹底取材したらどうなのかなと思うわけなんです。そこで、三位一体の改革というのはどういうことかと言うと、結局我々の農産物は、一部は直接消費者に届けてますが、多くはホクレンだとか、流通業者を通じて消費者の口に行っている。つまり、「自分ら」と「流通」とそれから「消費者」、この三位一体で考えていかなければならない問題なのでは、と思うわけです。よく小泉総理が言っている三位一体の改革、これは本当に酪農教育ファームにもあてはまる、つまり教育ファームは子供達だけじゃなく、消費者ももちろんそうだし、バイヤーだとか、そういう人たちもどんどん受け入れて現状を話することが大事なのではないかと思ってます。


(酪農教育ファームのメリット・デメリット)
次に酪農教育ファームのメリットとデメリットです。自分が十数年やってきた中で感じたことを簡単に
説明します。
まず、酪農教育ファームというのは、今までは中央酪農会議が指導してきたわけなのですが、それは学校の総合学習に向けてどういう形で提供したら良いか、ともかく子供達に対してどうか、という観点でした。それでは大変な部分が多くて裾野が広がらず、実施する酪農家が増えていかないのでは、いう感覚を持っていました。では酪農家としてやった場合どうなんだろう、というメリットとデメリットを考えてみました。
まずメリットの方は、一番目は「投資がいらない」ということです。購入するための投資はいらないし、
レストランを作らなくても、観光施設を作らなくてもいいわけですし、自分の牧場を直接見せながら、酪農が理解してもらえます。
二番目は「消費拡大」につながります。さきほどのように子供たちに話をして、それが家族に伝わって来てもらえる、あるいは、大勢の消費者が家に見学に来て牛乳を飲んでみたとか、アイス、乳製品食べてみたいとか、あるいはこうやって苦労して作っているんだと、身近に感じてもらえて消費拡大につながるように思います。
三番目には「自信」です。先ほど言いましたように、自分も酪農が好きで始めたわけじゃないんです。本当に最初は自信がなくてこんな仕事一生続けられるのかな?などと思いながらやっていたのですが、消費者に「いやすごいですね、いい仕事やってますね」、そう言われて「あ、俺って、そんなすごい仕事やってんのか」と思えるのです。食料は3日も我慢できるわけじゃないし、そういうものを生産している大事な仕事なんだと、こういう事を消費者から教えられたような気がします。
それから四番目は「信頼」です。先程ビデオの中で言いましたが、これでいいかな?という作業が結構あるわけなのです。特に酪農では乳房炎も少々この位なら入れちまえとか、体細胞の数字がここから上に行かなければ、ペナルティ取られないからいいや、とかそんな感覚でしてしまうことが多いのですが、いやいや待てよ、ああいう人達が飲んでくれる、こういう子供達が食べてくれる、そう思うことによって、もっといい牛乳、もっといい乳製品を、と考えられる様になるんじゃないかと思います。
五番目は「人材活用」です。私も53歳になりましたし、息子が後継者として今、少しずつやっています。もう5年10年経つと「親父もういらねえ」とたぶん言ってくれるんじゃないかなと思ってるわけです。でも、長くやってきた経験はそのまま残っているので、その経験を活かして本当に息子達が経営を一生懸命やって、そして、リタイアするような我々年代は消費者と色々な話をしながら酪農理解と農業理解を担う……歳とってゲートボールやパークゴルフをやるばかりでなく、酪農理解〜そういう人材活用になるのではないかと思ってます。
それから六番目は「情報収集」です。自分は酪農を伝えたいと思いミルキングパーラーを建てました。見学室も作りました。すると「あいつは何であんな事をやったんだ?」もっとそれを知りたいと、色々な人が集まってきてくれるのです。そういう人たちに色々な情報をもらって、うちのウエモンズハートは出来ました。当時、帯広にある明治乳業の工場長がそういう消費者行為をやっているというので、珍しがって来てくれたのです。それから仲良くなりまして、ずっとお付き合いさせてもらっています。その人に、乳製品の加工はどういうものなのか、経費がどのくらいかかるのか、どのくらい施設がいるのか、全く分からないものを教えていただいて、今の形になったのです。色々な形で情報を持っている人が来てくれるのです。自分が発信することによって。情報はインターネットを使ったり図書館に出かけていったり、色々な人に会って収集するものなのですが、逆に情報が集まってくるのだなということも感じました。
それから七番目は「起業」です。新たな起業ってよく言いますね。ウエモンズハートも、そういう中でこ
んな牛臭いところに消費者の人達は来てくれるんだな、「ひょっとしたらこういう商売やったらいいのかな」。立地条件とか様々なものを消費者に来てもらうことによって、考えあわせて間違えのない起業がやりやすくなると思います。
メリットの最後は「農業の意義」です。食料とはすぐ簡単に生産できるものではないし、逆にいえば3日と我慢できるものでもないのです。それだけ農業は大事なんだ、ということが自分はこの教育ファームという活動を通じて感じました。ひとりひとりの生産者がそのことに自信を持って農業をやっていくのが大事だと思っています。
また、その反面デメリットがあります。このデメリットというのは、一番目は「家族理解と労働過重」です。先ほど説明したように、受け入れが夏から秋に集中していて、北海道の農作業が忙しい時期に集中してしまい、家族の皆が理解してくれないとできません。例えば奥さんだけがやりたいって言っても、ご主人が「こんな忙しい時に、そんなもん、消費者行為なんかあるか!」という話になってはなかなかできません。だから家族理解は非常に大事です。それから、自分もやってて思うのですが、1ヶ月に10件15件受け入れている時は、昼間はそういう受け入れをやって、夜に牧草を刈っているのです。そして昼間受け入れやって、夜にフォレージハーベスターで草刈って自分で運んで、サイレージ積みをやったりだとか。そんな事をやって当初は本当に笑われてました。そのぐらい労働過重になります。
そして二番目は「事前の打ち合わせ」ですが、これも必ずやった方が良いです。学校の先生方は授業が終って4時とか5時頃よく来るんです。土日は自分の時間だから、全然来てくれないです。そうなるとやっぱり搾乳の時間に重なる。スムーズにやるためには事前の打ち合わせは大事ですが、農作業にぶつかってしまう。これに関しても家族理解がなければいけないと思ってます。
それから三番目は「多様性の排除」です。これは自分でも少しあるのかもしれないと思うのですが、例えば今いろんな酪農家があります。放牧酪農もあれば、メガファームとかギガファームもあります。メガファームやギガファームだと糞尿の問題も出てきたりします。すると、自分の経営スタイルを正当化するあまり「ああいう飼い方は良くないんだ」「こういう飼い方はああなんだ」と、消費者に誤解を与えるようなことまで言ってしまう方も結構多いのです。それは、酪農家仲間同士で話し合えば良いことであって、消費者に提議する問題ではないと思います。その辺もよく考え合わせてやらないと、逆に酪農の誤解につながる恐れもあります。
それから四番目は「貧弱な知識」です。例えば、牛に胃が4つあります。これら4つの胃の説明は、実は正確になかなか出来ないものなのです。我々はホクレンとタイアップして、札幌駅前で何年かイベントをやっていて、クイズなんかやるわけです。牛に胃が4つあります。では、一番目の胃から四番目の胃の働きは? ある酪農実習に来ていたお姉さんが説明していたのです。「へぇ、そんな働きなのか」と思ってビックリしていたのですが……それは「牛はどんどん餌を食べて一胃に入れます。一胃である程度消化したら、一旦戻して反芻して二胃に入れます。二胃で消化したら、また一回戻して反芻して三胃に入れます。三胃である程度消化したら、また反芻して四胃に入れます」……何かちょっと違うんじゃないかな?と思ったわけです。それが小学校の子供達に大して影響があるわけではないのですが、そのような類でしっかり我々が牛の体の知識を持たないで、間違った説明をしてしまうということは往々にしてあり、もっと勉強しなければいけない、という風に思います。
それから最後にこれは大きな問題なのですが、受け入れてもらう側、学校ですね、そこに「コスト意識」っていうのは全くないです〜学校というのは。「一時間だとこれ位頂きたいです」「えっ?お金かかるんですか?」、そういう話になるわけです。「私どももお宅の学校一件だけならいいのですが、大勢受け入れて、そしてそのために実習生とか従業員を雇っているわすから、その分コストは負担してください」と言いたいわけです。あるいは、搾乳体験する時も、いくらかかります?「え? 2、3回搾るのに何百円も取るの?」、こういう言い方なのです。でも、我々もさっき言ったように24時間の中で自分の生活もあり、酪農という仕事もあり、その中で、伝える仕事もやっていると思ってます。学校の先生方はなかなか予算がない、年度が4月から始まった中での対応になってくるので、なかなかコスト意識という意味ではお金にならない無料講師が結構多いという風に感じます。そういう意味で、酪農教育ファームというものを、よく理解していただけなければ、なかなか難しいと思ってます。



(酪農教育ファームの今後の展望)
最後に展望ですけれども、今、酪農教育ファームに対しては、中央酪農会議で平成17年から5年間大きな予算を取っていて、牛乳の消費拡大〜そのためには教育ファームが大切だということで、予算づけをしております。そういう意味で今後ますます必要な活動になっていくと思ってます。時間がもうなくなって尻切れとんぼになりましたけれども、ますます酪農、牛乳消費拡大のために、そして自分達の自信のためにも教育ファームというものを進めていきたいと思っていますし、これからも広がっていくものと確信しております。あとパンフレットを見ていただければ、どんな活動をしているのかが良く分かると思いますし、裏の方に中央酪農会義とか、これを作った事務局の名前が書いてあります。詳しい事をお知りになりたければインターネットでも電話でも詳しいことが分かりますので、見ていただければと思います。どうも最後までありがとうございました


(質疑応答)
(質問)「広瀬さんのようなお考えをもっている農家が、全国、あるいは北海道でどれくらいの数があるのか? そしてその役務代はどうであるか、お話いただきたい」
(広瀬)今、日本の酪農家は減りに減って2万8,000戸位だそうです。その中の1%に満たない数、約250位の牧場が地域交流牧場という形で、消費者交流を実際にやっています。教育ファームもそうですし、アイスクリームを作って販売している、あるいは、レストラン・ファームイン、色々な形で消費者交流をやってる牧場が会員となって、250名ほど集まっております。その中で北海道では75牧場位が加盟しております。教育ファームの方ですけれど、これは認証制度を作っています。認証された牧場は280位あります。こういうルールにのっとって、あるいは、保険にもちゃんと加入して安全な体験ができますよ、という認証を受けてる牧場が170ほどあります。

(質問)「教育ファームということで、人を受け入れるとなると環境に対する意識も、やっぱり深いと思うんですが、何か工夫していらっしゃることはありますでしょうか?」。
(広瀬)その辺は一番答えにくいところです。なかなか環境整備は難しくてですね、やはり日々、きちっとした考えでやっていないと……、明日こそはと思っているとなかなか片付かないものです。仲間ではもちろん綺麗にしている人もたくさんいますし、うちはただ、こ綺麗にしようかなという程度でやっております。あまり自分に負担がかかってもまたいけないし、あるいは、逆に悪いイメージ持ってもらっても困るわけで、まあ、そこそこなやり方かな、と自分では思っています。

(司会)「時間がきました。広瀬さんはまだいらっしゃいますから、聞きたいことがあったら、直接聞いてみてください。最後に素晴らしいお話をして下さいました広瀬さんにもう一度拍手を」。

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